牧師ブログ

「信仰の経験値」

羊飼いの少年ダビデは、杖と石だけを持って、ゴリアトに向かっていった。
そして、周囲の予想に反して、ダビデはゴリアトを倒した。
ダビデをゴリアトに向かわせ、勝利させた要因は何だったのか?

ダビデの見たゴリアト

ダビデはエッサイという父のもとに、8人兄弟の末っ子として生まれた。
エッサイは羊を飼っており、いつもダビデが羊の世話を任されていた。
羊飼いとして働いていたダビデが、なぜゴリアトと戦うことになったのか?

そのきっかけとなったのは、兵士として戦場に遣わされていた兄たちのもとに、ダビデが食糧を届けに行ったことだった。
そこでゴリアトは、自分に挑んでくる者は誰かいないのかとイスラエルを挑発していた。
ダビデはその挑戦的な言葉を聞いて、自分がゴリアトと戦うと立候補した。

ゴリアトは身長3m近くあり、頭には青銅の兜をかぶり、60kg近い青銅の鎧とすね当てをつけ、肩には青銅の投げ槍を背負っていた。
イスラエルの兵士たちはみな、ゴリアトの前に恐れおののいていたが、たまたま食糧を届けにやってきただけのダビデが、ゴリアトと戦うことになった。

戦場にいた誰もが、いきなり登場した羊飼いのダビデが、ゴリアトと戦うには無理があると思った。
しかし、ダビデだけはゴリアトのことを全く違う目で見ていた。

「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。(サムエル記上17:26)」

ダビデはゴリアトに対して、神様の軍隊であるイスラエルに挑戦してくるあいつは、一体何者なんだと思った。
イスラエルにとって、ゴリアトは恐怖の対象でしかなかった。
ゴリアトを見れば、自分たちが弱く愚かな存在にしか見えなかった。

しかしダビデの目には、ゴリアトが神様に挑戦してくる愚かな者に見えていた。
兵士とダビデは、同じ場面で同じものを見ていたが、ゴリアトのことを全くの正反対に見ていた。
なぜダビデの目には、ゴリアトのことが愚かな人間に見えたのか?

無謀な挑戦?

「お前なんかがゴリアトと戦うのは無理だ」と言われた時、ダビデはこのように答えている。

34しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。35そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。36わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」(サムエル記上17:34-36)

普段、羊飼いとして働いていたダビデは、これまで家の羊が獅子や熊に襲われたことがたびたびあった。
羊というのは攻撃力も防御力もゼロなので、もし羊が襲われれば、ダビデが獅子や熊に立ち向かって、その口から羊を取り戻してきた。
また、獅子や熊が自分に向かってくることがあれば、たてがみを掴んで、撃ち殺した。
ダビデは、これまで羊飼いとして獅子や熊を倒してきた経験があるから、ゴリアトにも勝てると考えた。

確かに、獅子や熊と戦って勝つというのは、並大抵のことではないが、ダビデがゴリアトに戦って勝てると考えたのは、単に自分にはこれまで、獅子や熊を殺してきた経験があるからではない。
というのも、羊はとても弱い動物なので、外敵に襲われることはわりとよくあった。
そのため、自分の羊を守るために獅子や熊を追い払うというのは、ダビデに限らず、羊飼いに与えられていた大切な仕事の一つだった。

ダビデがゴリアトを倒せると思った理由は、別のところにある。

ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」(サムエル記上17:37)

ダビデは、これまで自分が獅子や熊を倒すことができたのは、神様が自分を守ってくださったからだと告白している。
つまり、これまで羊飼いとして働いてきた中で、神様がいつも自分を守ってくださったんだから、今回も神様がゴリアトから自分を守ってくださるという神様への信仰が、ダビデをゴリアトに向かわせたのである。

日常の中で培われた信仰

ダビデがゴリアトに向かって行くことができたのは、一言で言えば信仰によるものだったが、この信仰は一朝一夕に培われたものではない。
ダビデがゴリアトを前にして「神様が自分を守ってくださる」と思えたのは、これまで「神様が自分を守ってくださった」という経験を重ねてきたからである。
つまり、羊飼いという平凡な仕事の中で、ダビデの信仰はゴリアトに打ち勝たせるほどまでに成長していったのである。

ダビデの信仰は、何かスペシャルな出来事を通して培われたのではない。
羊飼いとして、毎日忠実に仕事を行う中で養われていった。

このことから、私たちが自分自身に問いかけるべきることは、日々の何気ない生活をどのように生きているかということである。

神様は日曜日だけの神様ではない。
何か大変なことが起こった時に、呼び求めるだけの存在でもない。
高い技術や豊富な経験が、私たちの人格や信仰を成長させる鍵ではない。
日々の何気ない生活の中で、実際に生きておられる神様を体験していくことこそ、私たちを成長させる真の経験値である。

ダビデがゴリアトとタイマン勝負を挑むことになった時に、ダビデには戦いに必要な武器や武具は何一つ持っていなかった。
ダビデはこれまで兵士として戦った経験が全くなかったので、兵士が身に付けるものに慣れていなかった。

それでダビデは、普段、羊飼いとして働いていた時に身につけていた杖と石だけを持って、ゴリアトに向かって行った。
その場にいた誰の目にも、杖と石だけで、鉄壁のゴリアトと戦うのは、あまりにも無謀で馬鹿げた挑戦に見えたと思う。

しかし、実際に戦いが始まると、ダビデが石投げ紐を使って、ゴリアトの額を目掛けて石を飛ばすと、何とその一撃でゴリアトは倒れて死んでしまった。
イスラエルの戦いは、神様の戦いであるがゆえに、数や強さによって勝敗が決するのではない。

16王の勝利は兵の数によらず/勇士を救うのも力の強さではない。17 馬は勝利をもたらすものとはならず/兵の数によって救われるのでもない。18 見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。(詩篇33:16-18)

杖と石だけじゃ、さすがにどうしようもできないと思うのが、普通の思考である。
「こんなものがあっても何の役にも立たない」「もっとあんなものがあればいいのに」
こう考えて、自分には何もないからできない、自分はダメだと考えてしまう。

しかし、私たちが目を向けるべきところは、数や強さではない。
私たちが主を畏れ、主の慈しみを待ち望んでいるのなら、神様が共にいて助けてくれる。
私たちの救いは、ただ神様によって与えられるのである。