ヨセフが味わったクリスマス
先週、金曜日の夕方にカフェで子どものクリスマス会をやりました。
食事をした後に3択クイズ大会をやったのですが、その中で出したクイズを一つ、ここでも出すので考えてみてください。
Q . サンタクロースの元になった人はどこの国の人でしょうか?
①フィンランド ②ハンガリー ③トルコ
正解は……
トルコです。
4世紀の東ローマ帝国(今のトルコ)に聖ニコラウスという司教がいましたが、彼が貧しい人たちを助けたという逸話がサンタクロースの起源になっているそうです。
この問題を出した瞬間、みんな一斉に「もと?」と言い出しました。
私はネットを参考にして作ったので、作っている時は全然考えませんでしたが「もと」があるということは、今のサンタクロースは何者なのだという話です。
子どもたちの夢を壊してしまったかと思ったが、雰囲気的にうまくおさまったみたいだったので良かったですが…ここに大人と子どもの違いが一つあるように思います。
大人というのは良くも悪くも常識にとらわれます。
一定の基準だったり、人生の中で培われてきた見識があって、その枠の中で、考えたり何かを行ったりします。
「私は今もサンタクロースが実在していると信じています」という純粋な?大人はおそらくいないと思います。
そのように、何かを信じるということにおいては、大人よりも子どもの方が明らかに長けています。
これは信仰ということを考えてみても、そのように言えると思います。
2000年前、世界で最初のクリスマスの現場では、自分の枠と闘い、葛藤した人がいました。
今日はその物語を分かち合いたいと思います。
新約聖書には全部で4つの福音書がありますが、その中でルカとマタイはイエスの誕生について書いています。
ルカとマタイの2つを比べてみると、大きく違う点は、ルカはイエスの誕生を母マリアの視点から書いていますが、マタイは父ヨセフに起こったことに注目して、ヨセフの視点から書いているという点です。
イエスの誕生という出来事は、今の私たちにとっては、クリスマスという喜びの出来事ですが、イエスの父ヨセフにとってはそうではありませんでした。
ヨセフにとってイエスの誕生は、衝撃的な出来事であり、大事件だったのです。
イエスの誕生の次第について、マタイはこのように書いている。
ヨセフはマリアと婚約していますが、2人が正式に結婚する前にマリアが身ごもっていることが明らかになりました。
ユダヤでは婚約期間のうちは相手の女性と性的な関係を持たないので、その間に女性が身ごもったとしたら、それは大事件です。
ユダヤの律法では、婚約しているかに関わらず、結婚前に他の男性と性的な関係をもった女性と結婚することは御法度であり、もし婚約中の女性が誰かと性的な関係を持った場合は、姦通罪という罪に定められます。
この姦通罪という罪は、石打ちによって処刑される可能性があるほどの大罪でした。
ユダヤには伝統的に、結婚前に1年以上の婚約期間を設ける風習があって、婚約する時には、両家の父親が契約書を交わし、婚約が正式に成立します。
この時点ではまだ一緒の家で生活するわけではありませんが、法律上、婚約した時点ですでに夫婦という契約関係が結ばれるので、もし婚約を解消する場合には、離婚の手続きをしなければなりませんでした。
このような事情を考えると、マリアが身ごもったことを知った時、ヨセフは相当に絶望したと想像ができます。
ヨセフの決断
この時ヨセフには、二つの選択肢があった。
一つは、マリアが妊娠したことを公にして、律法に沿ってマリアにその代償を負わせることです。
マリアが身ごもったとしたら、当然それは、自分以外の男性と関係を持ったということになります。
律法によれば、ヨセフはマリアに起こったことを周りに知らせて、罰を与える権利がありました。
また、もう一つの選択肢は、マリアが妊娠したことを公にせず、離婚の手続きをしてそっと別れることです。
ヨセフにはマリアの不貞を根拠に離婚届を書き、マリアと別れる権利もありました。
ヨセフからしたらどちらにしても「人生狂わされた」と言える出来事だったと思いますが、この二つのうち、ヨセフはどちらを選んだでしょうか?
19節を見ると、ヨセフはマリアのことを公にせずに、密かに縁を切って、別れる道を選んだことがわかります。
マタイはこのヨセフの決断について、ヨセフが正しい人だったからだと証言しています。
この正しいという言葉は、単に道徳的に正しいということではなく、律法を真剣に守ろうとする敬虔なユダヤ人に向けられる正しさです。
ユダヤ社会が律法によって成り立っていたことを考えると、社会的に正しい選択は、マリアが妊娠したことを人々に知らしめて、律法に従ってマリアにその代償を負わせることでしょう。
今の私たちから見たら、ヨセフを優しい人だなと感じるかもしれませんが、本来は、律法に基づいて物事を進めていくのが、ユダヤの常識であり、正しい行動です。
そう考えるとヨセフの決心は、正しいか正しくないかで言えば、正しくないこと、非常識なことだと言えます。
そのようにヨセフがマリアと別れようと考えている時に、夢の中に主の天使が現れました。
天使はヨセフにこのように告げました。
こういう話を聞いて、ヨセフはかなり動揺したと思いますが、それでもヨセフは眠りから覚めると、天使から命じられた通り、マリアを迎え入れる決心をしました。
マリアが妊娠したことを公にすることなく、なおかつ、マリアを迎え入れることにした。
これは初めの選択肢の2つとはまた違う、新たな決断でした。
マリアがしたことを「律法に基づいて裁かない」という非常識な選択をした上に、ヨセフはさらにマリアと縁を切るのではなく、マリアを迎え入れるという非常識を重ねました。
ユダヤ社会的に正しくないことの上に、正しくないことを重ねたと言えます。
天使の言葉を聞いて、ヨセフは苦悩し、葛藤したと思います。
天使はマリアが身ごもったことについて「聖霊によって宿った」と告げましたが、これは簡単に信じられるような話ではなかったでしょう。
また、ヨセフにとっての最大の問題は、マリアを受け入れた後のことです。
だんだんとマリアのお腹が大きくなるので、マリアが身ごもったことは、周りの人々に徐々に知られていくようになります。
婚約中に妊娠したとすれば、人々はマリアとヨセフが律法を破って、結婚前に関係を持ったと騒ぎ立てるでしょう。
人々から律法に違反した罪人と見られることは明らかで、どれだけヨセフがマリアのことを愛していたとしても、周りからは理解されないことでした。
もしかしたら、家族とも縁を切らなければならないかもしれませんし、少なくとも、今いる場所でこれまでと同じように住むことは難しくなるでしょう。
社会的な正しさから言えば、律法通りにマリアを罰するか、婚約関係を解消する選択しかありません。
正しさを超えて
ただ、この時のヨセフには、そういうユダヤ的な正しさを超える思いがありました。
それが、神様の前での正しさです。
天使から言われたことを受け止めて、それに従うのか、それとも社会的な正しさに基づいて行動するのか、ヨセフは絶望の中で苦悩し、葛藤したと思います。
私たちは正しさを求めるときに葛藤します。
正しくあろうとするからこそ、悩み、苦しむわけです。
「別にどうでもいいや」という姿勢であれば、何をしても何が起こっても関係ありません。
別にどうでもいいのです。
しかし、私たちの中にはこれまでに培われてきた常識に基づいた価値観があります。
この価値観という枠の中で私たちは考え、行動しますが、ほとんどの場合、私たちの価値観は正しさであったり、理想であったり、こうあるべきという考えによって成り立っています。
私たちの枠からはみ出ることは、リスクがあります。
なるべく不要なリスクは取りたくないのです。
ヨセフの決心には、そういう大きなリスクをはらんでいました。
当時のユダヤの価値観からしたら、マリアを受け入れることは非常識なことであり、立派な大人がする選択ではありません。
そういうことを踏まえた上で、それでもヨセフは、マリアのことを迎え入れる決心をしたのです。」
マリアを受け入れるということは、生まれてくる子供も受け入れるということです。
ヨセフにとってその子供は、自分と血がつながっていない子供です。
それでも、ヨセフはこれからどんな苦しみや恥があったとしても、それをマリアと一緒に引き受け、マリアと生まれてくる子供と一緒に生きていく決心をしたのです。
その後、マリアが出産をする時、ヨセフの中にこういう心があったかもしれません。
「どうか天使が言った通りに、男の子が生まれてきてください!」
もし女の子が生まれてきたらどうするのか、ヨセフは内心、ドキドキしたかもしれません。
また、男の子が生まれてきたからと言って、それで天使の言葉が全て本当かどうかはまだわかりません。
天使は生まれてくる男の子について「この子は自分の民を罪から救うからである」と言っていましたが。
本当にこの子が救い主であるのか、実際に、そのことが明らかになるまで、30年以上の時間を要しました。
ヨセフは社会的な正しさの中では生きませんでした。
社会的な評価の中では生きませんでした。
ヨセフはただ神様の前に生きました。
大きなリスクをとって、神様の真実さに人生をベットしたのです。
クリスマスというのは、私たちが培ってきた常識や正しさが揺さぶられる時です。
そして、その枠が打ち壊されるような出来事がイエスの誕生です。
私たちが絶望する時、葛藤する時、社会的な正しさや「こうあるべき」という理想が私たちの人生を方向付け、導いてくれるのではありません。
どんな時も、いつもそこにおられるのが、主なる神様です。
絶望する時、大きな過ちを犯した時、自分を恨み、責める時、そういう時にこそ、私たちは主なる神様と出会い、神様の愛によって支えられるのです。



