メシアを待ち望んだ人々
今日は神殿奉献記念祭という祭りでの一コマです。
私たちがクリスマスをお祝いする時期になると、ユダヤでは神殿奉献記念祭という祭りが行われます。
この祭りはハヌカと呼ばれていて、光の祭りという意味があります。
キャンドルに火を灯して、油を使って作ったポテトパンケーキやドーナツを食べたり、子供にお小遣いやプレゼントをあげたりするそうです。
ユダヤで、冬の祭りと言ったらこのハヌカです。
今でもお祝いされている祭りで、クリスマスよりも歴史のある祭りです。
この祭りの起源は、AD2世紀にまで遡ります。
当時ユダヤは、シリアという国の支配下にありました。
シリアの王だったアンティオコス4世という人物は、熱烈なギリシャ文化のファンで、支配していた国々を一つの民族とするために、ギリシャ化政策を推し進めました。
それで、ユダヤからもユダヤ教的な要素が徹底的に排除されていきました。
子供に割礼を施すことが禁じられたり、神殿で礼拝を捧げることも禁じられました。
さらには、神殿の祭壇がギリシャの神ゼウスの祭壇に変えられ、異教の神々のために、祭壇にはユダヤ人が汚れた動物としていた豚が、いけにえとして捧げられるということも行われました。
その命令に逆らう人々は、容赦無く処刑されました。
シリアの暴挙によって、ユダヤの伝統が失われていく事態が起こりました。
そのような中で、ユダヤ人はシリアの支配から脱するために、独立戦争を始めました。
ユダ・マカバイという人物がリーダーとなり、ユダヤ軍を率いました。
その結果、ユダヤ軍はシリア軍を打ち破り、独立を勝ち取ることができました。
そして、神殿を奪回し、そこから偶像を取り除き、再び神殿を神様に奉献しました。
この時のことを記念して、ユダヤでは毎年、祭日としてハヌカという祭りを祝うようになりました。
この祭りには「ユダヤ民族の解放」と「礼拝の自由の回復」を記念するという重要な意味が込められているのです。
イエスの時代、ユダヤはローマの支配下に置かれていました。
そのため、1世紀前後のユダヤ人たちは、シリアから独立を勝ち取った時のリーダーであるユダ・マカバイのような人物が現れることを切望していました。
その期待をメシアに対してかけたのです。
旧約聖書に預言されているメシアが、ローマからユダヤを解放してくれるのではないか、と。
そのため、当時のユダヤでは、ハヌカの時期になると、ユダヤの独立のために、メシアが現れることへの期待がよりいっそう高まったと思います。
耳を傾けることから始まる関係
今日の場面を見ると、ユダヤの人々は神殿にいるイエスを取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と迫っています。
人々は「あなたはあのユダ・マカバイのように、ローマを倒して、我々を解放してくれるメシアなのか」と問いかけました。
これに対して、イエスはどのように答えられたでしょうか?
イエス様は、二度「あなたたちは信じない」と断言し、さらに「私の羊ではない」と言い放ちました。
「メシアか、メシアではないか」と言えば、イエスはメシアです。
メシアとして、ユダヤに来られたお方がイエスです。
しかし、人々が求めていたのは、あくまでも政治的な解放者でした。
人々の関心は、ローマを倒して、我々を独立に導いてくれるのかということに向けられていました。
結局、人々が求めたのは、自分たちの要求に応えてくれるメシアだったのです。
そのような思いは、当時のユダヤ人だけに限らず、私たちのうちにもあるかもしれません。
神様であれば、こうあるべきだ。
神様なんだから、神様なのになんで? それでも神様か?と。
このように考える私たちに対して、イエスはこう言われます。
神様に何かを願ったり、期待したりすることは悪いことでもなんでもありません。
むしろ、私たちの正直な思いなので、それは神様にぶつけた方がいいでしょう。
私たちが信じる神様は、語りかけ、問いかけることができる神様だからです。
ただ、私たちと神様とは一方通行の関係ではありません。
私たちが信じる神様は、私たちが語り、問いかけるように、私たちに対して語り、問いかけられる神様です。
神様がこの世界の歴史の中で、どのように存在してこられたかということについて明らかにしていのが聖書という書物です。
聖書は、神様が何を考え、何を語り、何を行ってきたかということを、イスラエル民族の視点から記録されたものだと言えます。
だからこそ、イエスは27節で「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言っておられるのです。
「わたしの声」という言葉が意味しているのは、イエスは語られる方であるということです。
イエスはご自分の声に耳を傾けてほしいと願っておられます。
2000年前、イエスの時代に生きた人々はイエス様が語る声を直接聞くことができましたが、今の私たちは、第一に、聖書を通して、イエスの声を聞くことができる。
イエスの言葉からその思いを知ることができます。
私たちにとって聖書とは、単に読むことに意義があるのではありません。
物知りになるために聖書を読むわけではなく、そこにある神様の声、神様の思いに耳を傾けることが大切なのです。
聖書というのは、そこに語られる神様がいて、その声に私たちが耳を傾ける時、聖書としての本来の役割が発揮されていきます。
語る神様がいて、それを聞く私たちがいて、同時に、神様に語りかける私たちがいて、それを聞く神様がいる。
この関係性こそ、信仰です。
何ものにも奪われない関係
そして、今日の場面では、イエス様の声を聞く時に私たちに与えられる素晴らしい約束について、イエスは語っておられます。
イエスはユダヤ人に対して、ご自分がメシアかどうかであるかははっきりとは答えられませんでした。
その代わりに、イエスはご自身がどのようなメシアであるのかについて、はっきりと答えられました。
イエスは、ご自分の声を聞き分ける者には、永遠の命が与えられると言われました。
この永遠の命というと、不死身の体や魂をイメージするかもしれないがそうではありません。
イエスは永遠の命について、このように言っておられます。
これは、イエスが父なる神様に祈っている言葉ですが、イエスは永遠の命とは父なる神様とイエスを知ることだと言っておられます。
聖書で「知る」という言葉が使われる時、その多くは、ただ知的に理解するということではなく、深く関わるという意味があります。
語られる神様とそれに耳を傾ける私たち。
そして神様に語りかけ、問いかける私たちとそれに耳を傾け、受け止められる神様。
こういう関係性の中で生きることが、信仰です。
28節の後半でイエスは「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言っておられます。
私たちの物理的な命はいつか終わりが来ます。
全員、死というものに奪われる時が来ます。
ただ、私と神様の関係性までは奪うことはできません。
パウロはこのように言っています。
何ものにも奪われない関係がそこにはあるのです。