突然の出来事
今日は、聖霊降臨祭(ペンテコステ)と言って、天からこの地に聖霊が注がれたことを記念して捧げる礼拝です。
今読んだ使徒言行録の2章には、まさに聖霊が注がれた瞬間が記録されていました。
この地に聖霊が注がれたことがきっかけとなり、この世界に新たに誕生したものがあります。
それは、教会です。
今現在、世界中にあるキリスト教会の歴史をさかのぼっていくと、使徒言行録に行き着きます。
私たちの教会もその一つで、つまり、教会は2000年近い歴史を持っていると言うことができます。
そして、この地に誕生した教会によって、イエス・キリストの福音が広がっていきました。
使徒言行録を見ると、これまで福音書の中で「弟子」と呼ばれていた人々に対して「使徒」という言葉が使われるようになっていることがわかります。
この「使徒」という言葉には「遣わされた者」という意味があります。
イエスの弟子たちは、使徒としてあらゆる国へと遣わされて行きました。
その結果、福音は世界中に広まり、各地でクリスチャンたちの集まり(教会)ができ上がっていきました。
聖書は、これらの原動力となったものが、聖霊であることを明らかにしています。
この地に聖霊が注がれた時、私たちの理解を超える、とても不思議なことが起こりました。
1節を見ると、聖霊が注がれたのは、五旬祭という日のことでした。
五旬祭というのは、ユダヤの三大祭りのうちの一つで、元々は収穫を祝う春のお祭りです。
その日、イエスの弟子たち120人ほどが、一つに集まっていましたが、その時に、とても不思議な事が起こりました。
2〜4節を見ると、突然、激しい風が吹いて来るような音がしたと思ったら、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、人々の上にとどまりました。
すると、人々は聖霊に満たされて、外国の言葉を話し始めたのです。
激しい風が吹いてくるような音とは、どんな音だったのでしょうか?
炎のような舌とありますが、これは一体どんなものだったのでしょうか?
また、聖霊に満たされた人々は、なぜ突然、外国語で話し始めたのでしょうか?
不思議なことだらけです。
そこで起こった一つ一つの現象を理解して、説明することは難しいことで翔。
とにかく、聖霊が注がれた時、そこでは私たちの理解を超える、神秘的なことが起こっていました。
この神秘的な体験は何を意味しているのでしょうか?
それは、聖霊降臨という出来事は、完全に神様によって引き起こされたことだということです。
そこで起こっていたことは、当然、人間にはできないことであり、また、完全に理解することも、論理的に説明することもできないことでした。
それはつまり、神様がなされたわざであるということです。
だから、それは突然、起こったのです。
「突然」という言葉は、予想していなかったことが起こるということです。
突然、起こることというのは、人間が計画して実現するようなことではありません。
聖霊降臨という出来事も、それが突然起こったということは、人間が準備して、実現したことではありません。
その時、120人ほどの人々は一緒に祈っていたようですが、祈りのゲージが溜まって、条件をクリアしたから聖霊が降臨してきたわけではありません。
人間ではなく、神様の計画によってなされた出来事が、聖霊降臨なのです。
聖霊の力によって
聖霊に満たされた人々が最初にしたことは、何だったでしょうか?
人々は他の国々の言葉を話し始めました。
ただ、適当な外国語を話していたわけではありません。
11節を見ると「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」とあります。
つまり、聖霊に満たされた人々が語っていたのは、神の偉大な業でした。
その日は、五旬祭だったため、海外出身のユダヤ人やユダヤ教に改宗した人々も、五旬祭を祝うためにユダヤにやって来ていました。
もっと正確に言えば、五旬祭の50日前に、ユダヤの三大祭りの一つである過越祭がありますが、その時から滞在していたのだと思う。
五旬祭のために海外から来ていた人々は、聖霊に満たされた人々が、自分の故郷の言葉で話しているのを聞いて、驚き、戸惑いました。
彼らの中には「あの人たちは、酒に酔っているのだ」と言って、使徒たちをあざける者たちもいました。
だからと言って、神の御業を語り出した人々は、神の御業を語ることをやめませんでした。
彼らは、五旬祭を祝うために集まっていた多くの人々に対して、神の御業を語り続けたのです。
聖霊が降臨したのが、五旬祭の日だったことが偶然だったとは思えません。
五旬祭の日に起こった出来事を見た人々は、祭りが終わると、それぞれ自分の国に帰っていったでしょう。
そして、自分の故郷で、ユダヤで起こったことを周りの人々に話したと思います。
そのようにして、福音は外へと広がっていきました。
イエスをメシアとして信じた人々は、共に集まり、祈り、交わるようになっていきました。
それが、教会と呼ばれるようになり、今の時代まで続いているのです。
はじめに聖霊が注がれた120人ほどの人々は、十字架の時、イエスから離れていってしまった人たちです。
その中でも、特に中心的な弟子である十二弟子は、イエスが殺された後、自分たちもイエスと同じ目に遭わされるんじゃないかと思って、家の中に隠れていた人々です。
そんな弟子たちが、復活したイエスに出会い、さらには聖霊に満たされてからは、人々に嘲られても、神の御業を語ることを止めませんでした。
彼らはユダヤの中だけではなく、福音を持って外へと出ていきました。
以前、家の中に隠れていた人たちとは見違えるほどです。
それは、聖霊の力が彼らのうちに働いたからでしょう。
弱い時こそ強い
使徒言行録を読み進めていくと、途中からパウロという人が福音を世界へと伝えてにいった記録が中心に書かれています。
このパウロも、クリスチャンに対して激しい迫害がある中でも、聖霊の力で福音を伝えました。
このように、聖霊というのは、実際的に働く大きな力でした。
聖霊によって、使徒たちは福音を伝えることができました。
ただ、ここで一つ覚えておきたいことは、パウロと弟子たちのもう一つの共通点です。
それは、彼らは自分たちの弱さを知っていたということです。
先ほど話したように、弟子たちは一度イエスを裏切ってしまった経験がある人々です。
イエスが殺された後、彼らはユダヤ人たちを恐れて、人前に出ることができませんでした。
弟子たちは、そういう自分たちの弱さを知っていました。
また、パウロという人は、もともとクリスチャンを迫害する側にいた人です。
使徒言行録の中には、ステファノという人が迫害され、殺される場面がありますが、その時、パウロは、ステファノを殺すために中心的な役割を担っていたようです。
もともとパウロは、クリスチャンの敵として生きていた人です。
パウロとしては神様に従っているつもりでしたが、実は、全く逆のことを行っていたのです。
パウロ自身、そういう自分の弱さをよく知っていたでしょう。
普通、弱さというのは弱点とされています。
この世界では、弱さではなく強さが求められます。
だから、私たちは弱さを否定したくなります。
でも、神様の世界ではそうではありません。
弱さの中で、神様の力は発揮されていきます。
弱さを知っている自分、弱さを受け入れているところに、神様の力が働くのです。
私たちのうちにも、この聖霊が共におられます。