サドカイ派の思想
今日分かち合うのは、イエスがサドカイ派と呼ばれる宗教グループの人々と論争をする場面です。
先週は、イエスがエリコという街でザアカイを救いへと導いた場面を分かち合いましたが、その後イエスは、十字架の死が待ち受けているエルサレムへとついに足を運び入れました。
エルサレムに入った後、イエスは毎日、神殿で教えていましたが、ある日、イエスのところにサドカイ派と呼ばれるグループの人々がやってきました。
新約聖書の中によく出てくる宗教グループと言えば、圧倒的に多いのがファリサイ派と呼ばれる人々ですが、サドカイ派はこのファリサイ派と並んで、宗教グループの二大勢力を形成していました。
ファリサイ派と言うと、律法学者やラビと言われる律法の教師を思い浮かべますが、その多くは一般民衆からなるグループでした。
ファリサイ派は、律法とシナゴーグと呼ばれる地域の会堂を中心に活動しました。
これに対して、サドカイ派は祭司や貴族階級などの上流層からなり、神殿での祭儀や儀式を中心に活動したグループです。
当時のユダヤにおいて、サドカイ派は、規模的には一般民衆からなるファリサイ派には劣ったが、ローマに協調することで、その地位や財力を築きました。
そのため、サドカイ派は政治的に大きな権力を握っていたようです。
他にもファリサイ派とサドカイ派にはいくつか違いがありますが、27節を見ると、サドカイ派について「復活があることを否定するサドカイ派」とあります。
ファリサイ派の人々は、死後の世界について、たとえば、復活や天使の存在など、霊的なことを肯定していましが、サドカイの人々は、そういう霊的な世界を否定しました。
また、律法についても、旧約聖書の中でモーセが書いたとされる創世記から申命記までーこれはモーセ五書と呼ばれているがーそれ以外の権威は認めなかったので、預言書や昔の人たちから受け継いできた言い伝えの律法は否定しました。
サドカイ派の関心は、この世の秩序を維持することであって、見えない世界ではなく、現世の安定に重きを置いていました。
このことを念頭に置いて、今日の場面を見ていきたいと思います。
この世の制度から解放される時
イエスのところにやってきたサドカイ派の人々は、イエスに対してある問いかけをしました。
サドカイ派の人々は、サドカイ派にとっての聖典(モーセ五書)の中にある申命記という書物で規定されている婚姻に関する律法をもとに尋ねました。
28節に『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』とあります。
この律法によると、家族の中で結婚している兄が死んだ場合、弟は兄の妻と結婚して、亡き兄の名を存続させなければなりませんでした。
イスラエル社会は、家系とその家の土地を継承することが重要なこととされていました。
子供がいないまま死んだ場合は、家の名前が絶え、相続もできません。
そこで、兄弟が死んだ兄に代わって子供を残すことで、家系を守る役割が課せられたのです。
また、女性は夫に先立たれると、経済的にも社会的にも非常に不安定な立場に置かれることになります。
そのため、女性が孤立しないための社会保障制度という側面もあったようです。
サドカイ派の人々は、この制度の極端な例を挙げて、イエスに「復活」に関する論争を仕掛けました。
「もし復活があるとするなら、7人の兄弟の妻となった女性は、復活した後、誰の妻になるのか?」と。
サドカイ派は復活を否定する立場でしたので、本当に死後に復活があるなら、この婚姻制度は破綻するではないか、復活は論理的に矛盾しているのではないかと、復活信仰を否定しにかかったわけです。
この問いかけに対して、イエスはどのように答えたでしょうか?
「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」(34-36節)
ここでイエスが言っていることは、死後の世界、つまり、復活した命は肉体や家系に囚われることのない命である、これはつまり、神様に属する命だということです。
復活の命には、この世のように結婚することもなく、そうであれば血縁というものもありません。
みんなが神の子としての命にあずかります。
弟が死んだ兄の妻をめとるというのは、あくまでも地上の制度に過ぎませんでした。
この世の命、肉体の命をつなぐための制度です。
人間が死ぬこと、また、その時に後世に名前や財産など、何かを継承することを前提に成り立っている制度です。
しかし、復活した命は、死ぬことのない命です。
そのため、名前を維持したり、財産を継承したりする必要がありません。
復活の命は、人間が死ぬことを前提としていないので、後世に何かを残すという意識自体がなくなるのです。
神の国では、私たちは死に支配されることがなくなります。
私たちの復活の命は、神様そのものに属するようになるからです。
これが神の子であり、この地を生きていく時に私たちが握りしめていく大きな希望です。
契約に基づいて
このことを示すために、イエスは出エジプト記3:6を引用して、さらに説明しています。
37節にあるモーセの柴の個所というのがその部分に当たりますが、そこで神様はご自分のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だと言っておられます。
この時、神様はモーセに対してイスラエルの民をエジプトから導き出す使命を与えようとしていました。
その前に、神様がご自身についてどんな神であるかを示すために言われたのが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉です。
いわば、神様の自己紹介です。
この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉は、イスラエルの民にとって、とても重要な意味があります。
今でも、ユダヤ教の礼拝では、アミダーと言って、立って唱える18の祈りがありますが、この祈りは「われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉から始まります。
アブラハムというのは信仰の父と言われる人物です。
神様はアブラハムに対して「私が示す地に行きなさい。あなたにその土地を与え、また、あなたの子孫を星のように増やす。あなたを通してこの地を祝福する」こういう約束をされました。
神様はアブラハムと契約を結びました。
ここからアブラハムは、契約に基づいて神様を信頼する人生を歩み始めることになります。
イサクというのはアブラハムの子供ですが、もうアブラハムも妻のサラも子供を産める年齢で亡くなった時に、神様は子孫を与え、あなたを祝福するという約束を実現してくださいました。
そのしるしがイサクです。
アブラハムにイサクが誕生したことで、約束が継承されていきました。
そして、ヤコブはイサクの子供だが、ヤコブがある時、神様と格闘みたいなことをするのですが、その時にイスラエルという名前を与えられます。
このヤコブから12部族と言われる民族が形成され、イスラエル民族という形で神様の約束がまた継承されていきました。
つまり「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という自己紹介を通して神様が伝えたかったことは「私はあなたの祖先と契約を結び、その約束を今も覚えている。もちろん今後もずっと」ということです。
これは神の真実さ、忠実さの現れです。
その通り、神様は契約を守り続け、イスラエルの民と共に歩み続けました。
そして、今、その契約は2000年前、イエスによって更新されました。
パウロが「アブラハムは信仰によって義とされた」と説明しているように、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、今やユダヤ人だけではなく、信仰によって生きるすべての者の神となりました。
神様は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。
このように、神様の契約というのは、人間の死を超えて続くものです。
神様は、時代や民族を超えて、今の私たちにも愛を注ぎ続けておられます。
神様が真実であられる方であることを信じられるからこそ、私たちは神様を信頼して生きていくことができるのです。



