牧師ブログ

「貧乏人の大逆転??」

【ルカによる福音書16:19-26】

19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

貧しい人への慰めの話?

今読んだ箇所に、お金持ちの人が出てきました。
これは、実際にいた人ではなく、イエスが語ったたとえ話の中に登場する人物ですが、お金持ちというとあまり良いイメージを持たれないことが多いように思います。

今日の話の中に出てくる人がその典型ですが、そのお金持ちの人は、いつも高価な服を着て、毎日、贅沢に遊びながら暮らしていました。
そういう姿を見名柄、嫉妬心から不公平という感覚を抱くことがあるかもしれません。

このお金持ちの人の家に、食べ物に困って、物乞いに来ていた人がいました。
それがラザロという人です。
ラザロは食卓から落ちる物でも欲しいと思って、門の前に横たわっていましたが、金持ちはラザロのことを一切気にかけることはなかったようです。

やがて2人は死にますが、死後、ラザロはアブラハムがいる天国のようなところに行ったが、反対に金持ちの人は陰府と言って、地獄のようなところに行くことになりました。

金持ちは燃え盛る炎の中で、悶え苦しむことになり、ラザロに水を持って来させてほしいと、天国のアブラハムにお願いしますが、アブラハムの返答は「ここからお前たちの方へ渡ることもできなければ、そちらから私たちの方に超えてくることもできない」というものでした。

そこは隔絶された世界で、金持ちの人がどれだけ願っても最後まで助かることはなく、地獄で苦しみ悶え続けなければならなかったことを想像される形で、このたとえは終わっています。

この世では貧しく暮らしていたラザロが天国に行き、反対に、金持ちで毎日贅沢に遊んでいた人が地獄に行ったという話は、私みたいなお金持ちじゃない人からすると、とても爽快な話に聞こえます。
ウサギとかめの話であったり、苦労人が努力して、成功を収めるサクセスストーリーみたいな大逆転劇の話は、多くの人の心を打つと思います。

とすると、この話はクリスチャンは最後は天国に招かれ、大逆転劇があるから、この世では貧しい中でも頑張ってね、という話なのでしょうか?
イエスは貧しく暮らすことを慰め、励ますような話をしたかったのでしょうか?

存在を無視される苦しみ

このことを考える時、一つ押さえておくべきポイントは、この話の中で、なぜ金持ちとラザロの命運は分かれてしまったのかということです。

金持ちは、なぜ地獄のようなところに行くことになってしまったのでしょうか?
いつも高価な服を着て、毎日、贅沢に遊びまくっていたことがダメだったのでしょうか?
神様はお金持ちで、贅沢な暮らしをしている人が嫌いということでしょうか?

それとは反対に、なぜラザロは天国のようなところに行くことができたのでしょうか?
この世では貧しい生活をしてかわいそうだったから、せめて死んだ後くらいはということで、神様の情けによって天国に行くことができたのでしょうか?
そうであれば、神様は貧しい人が好きということであり、私たちに質素な生活をするように求めているということでしょうか?

この2人に関して、たとえ話の中で、ラザロが神様を信じていたとか、求めていたとか、そういうことは一切書かれていないし、暗示もされてはいません。
2人がそれぞれ天国と地獄に行くことになったことについては、特に説明されていないのです。

そうだとすると、おそらくイエスは単に、貧しい人を慰めようとしたのでもなく、天国と地獄という死後の世界について教えようとしたわけでもなかったと思います。

このたとえ話を理解するための大きなポイントは、この話を誰にしているかという部分にあります。

今日の話の少し前を見ると、この時イエスの話を聞いていたのは、お金に執着するファリサイ派の人々だったことがわかります。
イエスはそういうお金に執着する人々に、何かを伝えたかったのだと思います。

それでは、話の核心に迫っていきたいと思いますが、金持ちはラザロが食べ物をもらうために自分の家に来て、門の前に横たわっている姿を知っていたはずです。
そうやってラザロが毎日、苦しみながら生きていることを、金持ちは知っていたのです。

しかし、金持ちはそんなラザロに対して、何の関心も抱くことはありませんでした。
ラザロが日々味わっていた苦しみについて、何も思いませんでした。
むしろ、金持ちにとって、ラザロは鬱陶しい存在だったと思います。

貧しい暮らしをしていたラザロが味わっていた苦しみとは、どのようなものだったでしょうか?
ラザロの苦しみは、単に貧しいこと、お金がなくて食べられなかったということだけではなかったと思います。

それと同時に、こんなに苦しい思いをしているのに、助けてもらいたいのに、自分に誰も見向きもしてくれないという痛みを感じていたと思います。
一言で言えば「存在を無視される」という苦しみです。

まさにファリサイ派の人々は、罪人や徴税人、貧しい人々、病気の人々、悪霊に取り憑かれた人々など、いろんな理由で苦しみ、痛みを抱えている人々に対して、彼らの苦しみを理解しようとはしませんでした。
ただ、律法を基準にして、彼らを裁くことにしか関心がありませんでした。
単に裁きの対象だったということです。

だから彼らは、罪人と言われる人たちを、イエスが優しく迎え入れ、一緒に食事を分かち合っていることを批判しました。
長い間、病気で苦しんでいた人や悪霊に取り憑かれていた人が、イエスによって癒されたとしても、決して喜ぶことはありませんでした。

人に冷たくなる時

なぜファリサイ派の人々は、神様を信じていながらも、そのように人を裁き、人に対して冷たくなってしまったのでしょうか?

それは彼らの関心が神様でもなく、人でもなくなってしまったからです。
ファリサイ派の人々の1番の関心ごとは、律法でした。
律法という基準に照らし合わせて、この人は正しい人なのかどうか、これは正しい行為なのかどうか、正しさを絶対的な基準に据えました。

正しさを基準にして生きるようになると、人はどうなるでしょうか?
正しくない人たちを攻撃し、責めるようになります。
人に対して冷たくなり、関心を持つことが難しくなっていくのです。

こういうことは、決してクリスチャンにも無関係のことではありません。
神様を信じていても、律法主義に陥ると、攻撃型のクリスチャンになっていきます。
イエスの名によって祈り、イエスの名によってマウントをとる、マウントクリスチャンになってしまいます。

また、もう一つ、この場面においては、イエスの話を聞いていたのは単なるファリサイ派ではなく、金に執着するファリサイ派の人々だったというところも押さえておくべきことでしょう。

このお金に執着するという言葉は、もともとの意味は、お金の恋人というような意味の言葉です。
お金のために全てを尽くしていたということです。
そのように、イエスはお金に執着していたということを問題視していたようです。

だからと言って、ファリサイ派=お金持ちだったわけではありません。
当時、ユダヤ教には2大グループ(サドカイ派・ファリサイ派)がありましたが、ファリサイ派は農民や商人などの庶民層から成り立っていたので、お金持ちではない人の方が多かったと思います。
こういうことを見ても、イエスは単にお金持ちを批判したかったわけでないことがわかります。

イエスのたとえに出てくるお金持ちの問題は、お金に執着していた点にあります。
お金に執着していたからこそ、お金の恋人になっていたからこそ、ラザロには目もくれなかったのでしょう。
ラザロのために使うお金はなかったし、そもそも、ラザロの存在は鬱陶しかったと思います。
お金持ちであれ、貧乏であれ、人はお金の恋人になってしまうと、人を軽んじるようになっていくのだと思います。

神様の関心

貧乏人のラザロは生きている間は、誰からも関心を向けられませんでした。
しかし、そんなラザロに対して、唯一、関心を持っておられる方がいました。
それが、神様です。

ラザロは、死んだ後、天使たちによって天国のアブラハムのすぐそばに連れて行かれました。
そうなったのは、ラザロがこの世で見窄らしい生活をしていたことに対する情けではなかったと思います。
また、ラザロが神を信じる敬虔で正しい人だったからでもなかったと思います。

そういうことは、この話の中では何も明らかにされていません。

ただ一つだけ確かなことは、神様はラザロに関心を持っておられたということです。
神様はラザロの苦しみをよく知っておられたでしょうし、その心を理解していたことでしょう。

そのように、私たちは神様にとっては決して無視できない存在です。
神様の一番の関心はなんでしょうか?

私がクリスチャンとして成長していくことでしょうか?
そうではないと私は思います。
1匹の羊を見つけるまで執念深く探し回る神様は、一人の罪人が悔い改めることを願っておられる方です。

神様は、私が私でいること、私が私として生きること、そうです、私という存在そのものに目を向けておられるのです。