感謝と思い悩み
今日の礼拝は、収穫感謝礼拝(Thanks giving service)として捧げています。
収穫感謝という祭りの起源は、17世紀まで遡ります。
17世紀のイギリスには、ピューリタンと言われるクリスチャンたちがいました。
彼らは宗教上の迫害を受けており、信仰の自由を求めて、100名近くの人々が、メイフラワー号に乗って、アメリカ大陸を目指しました。
約2ヶ月かけて、アメリカの北部にある今のマサチューセッツ州に到着しましたが、すぐに冬が来たため、寒さや飢えによって、半分くらいの人々が死んでしまいました。
その後、生き残った人々は、原住民の助けによって、農業を始めることとなりました。
そして、秋になると、作物が実り、収穫を得ることができました。
ピューリタンたちは、助けてくれた現地の人々を招待して、多くの収穫を与えてくださった神様に感謝する集まりを持ちました。
これが、収穫感謝祭の始まりだと言われています。
収穫感謝祭には、一つには苦難から救ってくださった神様への感謝と、また、苦難の中で手を差し伸べてくれた現地の人々への感謝が込められているのです。
聖書を見ると、イスラエルでも毎年、収穫を祝うお祭りが行われていたことがわかります。
春には、大麦を収穫する祭りがあり、その50日後には、小麦の収穫を祝う祭りがありました。
さらには、秋には、仮庵祭という収穫祭が行われました。
このように、イスラエルの民が毎年、収穫祭をお祝いしたのは、与えてくださった神様を覚えて、神様に感謝を捧げるためでした。
感謝をすることの大切は重々わかっていながらも、私たちの人生では感謝できないこともたくさん起こります。
先ほど読んだ聖書の箇所に「思い悩むな(心配するな)」という言葉が何回も出てきましたが、感謝できずに思い悩むこともたくさんあります。
1日に思い悩まない日なんてないほどに、私たちは日々、思い悩みと共に生きている。
イエスは「思い悩むな」と言われましたが、思い悩むことは不信仰なことなのでしょうか?
思い悩み続けるのはやめなさい
25節には「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」とあり、31節では「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」とあります。
食べる物、飲む物、着る物というのは、日々の生活に欠かせないものの代表格です。
ただ、私たちは食べ物や飲み物がなくて悩んでいるわけではありません。
食べることもできるし、飲むこともできます。
イエスが「何を食べるのか、何を飲むのか」と言っているように、私たちは未来について思い悩むのです。
これから先のことというのは、私たちがコントロールできないことです。
私たちの思い悩みの多くは、家庭や仕事、人間関係、病気のこと、進路のことなど、自分の意思や頑張りだけではどうにもできないことだと思います。
さらには、思い悩みが一つ、解決したと思ったら、また別の思い悩みがやってくるのが人生です。
食べることを解決したと思ったら、飲み物のことで思い悩み、飲み物のことが解決したと思ったら、着るもののことで思い悩みます。
ある問題が解決したと思ったら、また新しい思い悩みがやってくるのが人生です。
このように、思い悩みを0にすることは人間には不可能なことです。
それでは、イエスはどういう意味で「思い悩むな」と言っておられるのでしょうか?
実は、25節にある「思い悩むな」という言葉は、もともとの言葉を正確に訳すと「思い悩み続けるのはやめなさい」という意味の言葉です。
28節も同じように「なぜ、衣服のことで思い悩み続けるのか」という意味です。
つまり、イエスは思い悩み自体を否定して、思い悩むことは不信仰だと、私たちを責めているわけではありません。
「思い悩み続けなくても大丈夫だよ」と私たちを励ましておられるのです。
神様は私たちが思い悩んでしまうことをよく知っておられるはずです。
どんなことで思い悩んでいるのかをよく知っておられる。
その上で、思い悩み続けなくても大丈夫だと、イエスは言っておられるのでしょう。
神の国と神の義を求めなさい
なぜ、イエスはそのようなメッセージを伝えることができるのでしょうか?
イエスは空の鳥と野の花の話をしながら、天の父は鳥を養ってくださるのであり、また、神様は野の草を美しく装ってくださると言っています。
これはつまり、天の父は鳥や花以上に価値ある私たちのことを大切に扱い、養い、育ててくださるということです。
32節に「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」とあるように、天の父は私たちに何が必要であるのかをよく知っておられます。
これは、ただ頭でわかっているということではなく、神様は私たちに必要なものを与えてくださるということです。
神様は鳥や花に必要なものを与え、養い育ててくださるように、私たちの必要を満たし、導いてくださるのです。
神様が私たちに願っていることは、ただ思い悩むことなく、ストレスなく生きていってほしいとではないでしょう。
33節を見ると、イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言っておられます。
イエスはここで「私たちが何を求めて生きていくべきであるのか」を教えています。
もちろん、食べることも、飲むことも、着ることも必要なことであり、大切なことです。
家庭や仕事、人間関係、病気のこと、進路のことなど、将来のことはどれも、私たちにとって、とても大切な問題です。
それを踏まえた上で、イエスは「神の国と神の義を求めなさい」と言っておられます。
このイエスの話は、実は、6章の前半からつながっています。
そこには「主の祈り」と言って、イエスが教えてくださった祈りが出てきます。
「御国を来らせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」
この祈りこそ「神の国と神の義を求めなさい」というイエスの言葉を表しています。
その後に「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」という祈りが続いていますが、これは、食べ物や飲み物、着る物など、私たちが毎日必要としているものを与えてくださいという祈りです。
神様は私たちが日々必要としているものを知っておられ、それを与えてくださるお方です。
その神様は、この世界をご自身の愛によって治めておられます。
神様は今日も、この世界に神の国が臨むように祈り働きながら、私たちに必要な糧を毎日与えてくださっているのです。