青年が求めたもの
この場面は、ある人がイエス様のところに来て、このように尋ねたことから始まります。
「先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?」
男はイエスと何度かやりとりをした後、最終的に、イエス様のもとを立ち去っていきました。
そして、彼が去った後、イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われました。
この話は、他の福音書にも記されていて、そこを見ると、この人は若い男性であり、お金持ちの議員だったようです。
ユダヤで議員になるためには、生まれも育ちも、トップレベルでなければなりません。
このことから、この青年はユダヤの伝統的な家庭に生まれ、これまでに最高の教育を受けて育ち、エリートの道を歩んできた人だと考えられます。
彼には、若さがあり、財産があり、社会的な地位があり、恵まれた家庭環境がありました。
ただ、この青年は、一つの不安を抱えていたようです。
それは、自分は永遠の命を受け継ぐことができるか、神の国に入ることができるのかというものです。
この青年は、地上での豊かな暮らしだけではなく、命を失った後、天上での豊かな暮らしも求めていたのです。
これに対して、イエスは旧約聖書にある十戒について話されました。
19節にある「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」というのは、十戒の中で、人間同士の間における教えです。
ユダヤ教徒にとって十戒というのは、律法の中で最も大切なものです。
この青年は、ユダヤの超一流の家庭で育てられたので「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と、自信満々にイエスに答えました。
そうするとイエスは「あなたに欠けているものが一つある」と言いながら「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われました。
彼にはたくさんの財産があったため、イエスの言葉に気を落として、悲しみながらそこを立ち去っていきました。
そして、立ち去る青年を見ながら、イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われました。
ユダヤ人にとって、富というのは本来、神様からの祝福と考えられていました。
しかし、イエスは、むしろ、その富が神の国に入る妨げとなると語られたのです。
愛の施しによって救われる?
この話の中で、イエスが「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」とか、また「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言っていることから「クリスチャンは、お金持ちになるべきではない」と言われることがあります。
確かに、お金がたくさんあると、神様が見えにくかったり、お金の力に引っ張られてしまうことはありますが、この場面でイエスが本当に伝えたかったことはそういう話ではなかったように思います。
そもそも青年は何のためにイエスのところにやってきたのでしょうか?
青年が聞きたかったことは、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのかということです。
皆さんは、そのように聞かれたらなんと答えるでしょうか?
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのか?」と。
実は、イエスはこの質問に対して、すぐにはっきりと答えていません。
イエスは十戒の話をして、彼がそういうことは子供の時から守って来ましたと答えたので、次に「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われました。
この「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」という話は、「永遠の命を受け継ぐためには何をすればよいでしょうか?」という質問に対する答えとして言ったことではありません。
イエスが言われた通りに、自分の持っているものを売って、貧しい人に施すことができれば、この青年は永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?
もしそうだとしたら、永遠の命、神様の救いというのが、人間の努力や頑張りで得られるということになってしまうでしょう。
もちろん、貧しい人に施すことは、愛の行いとして聖書が教えていることであり、尊いことですが、ただこれは、決して救われるための条件ではありません。
私たちが知っている話は、救いは人間の行いではなく、ただ神様が恵みでくださるということです。
人間の側に原因があるのではなく、神様が救ってくださるのであり、これが信仰によって救われるということです。
永遠の命を生きる
ということは、イエスが青年に対して「貧しい人々に施しなさい」と言ったのは、永遠の命を得るための条件として言ったことではないことがわかります。
23節を見ると、イエスが弟子たちを見回しながら「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言っているようい、おそらく、イエス様はお金持ちの人が永遠の命を得ることは簡単ではないことを、弟子たちに教えるためではなかったかと思います。
この時イエスが抱いた問題意識は、この青年が律法を完全に守っていないことに向けられていたのではなく、青年が何かをすることで永遠の命が得られると考えていたことにあったと思います。
青年の質問に対する答えは、この話の一番初めと終わりにあります。
18節 なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
27節 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」というのは「神様だけが、いつも善いお方として私たちと関わっておられる」ということです。
そして「人間にできることではないが、神にはできる」というのは、まさに救いの話です。
人間が何かをすることで、永遠の命を得ることはできません。
それはすべて神様の側でしてくださることです。
これこそ、イエスがこの青年に伝えたい真理であり、青年に足りなかった一つのことだったのでしょう。
そうだとすると、私たちは神の国に入るために、何かやる必要はない。
神の国に入るための条件は、一つもない。
ただ、24節でイエスが弟子たちに対して「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言っているように、条件は何もないけど簡単なことではありません。
なぜなら、お金であったり、いろんな欲望であったり、神様ではないものに支配され、縛られやすいのが人間だからです。
イエスがこの世に来られたのは、すべての人々に神の国を与えるためです。
善いお方である神様が、恵みによって与えてくださるのが、永遠の命です。
そうだとすれば、私たちはただ、この善い神様と共に生きていけばいいのです。