牧師ブログ

「何を見ているのか?」

1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(マルコによる福音書13:1-8)

ユダヤ人にとっての神殿

イエス様はいつかエルサレムの神殿が徹底的に破壊される時が来ると預言されました。
実際に、神殿は全ての工事が完了してからわずか6年後のAD70年に、ローマ軍によって破壊され、焼き尽くされました。

イエス様が神殿の破壊を預言したことの意味は、単に未来を予告したことに留まりません。
イエス様はユダヤ人の神殿に対する認識について、警鐘を鳴らされたのです。

そもそも神殿は、旧約時代のソロモンの治世に、神様が住まわれるところとして建てられました。
その後、バビロン捕囚によって破壊されてしまいますが、捕囚から帰還した民によって神殿が再建されました。
イエス様の時代になると、ヘロデ大王が自らの人気取りのために、神殿の大改修を行いました。
豪華絢爛に生まれ変わった神殿は、ユダヤ人の誇りとなりました。

しかし、その場所で行われていた儀式は、形骸化し、形だけのものに成り下がっていました。
神殿の境内では、いけにえの動物を売ったり、両替をしたりして、商売をする者までも現れました。

イエス様が「これらの大きな建物を見ているのか」と言われたのは、そういう神殿に対するユダヤ人の認識について、危うさを覚えておられたからでしょう。

ユダヤ人は「こんなにも立派な神殿があれば大丈夫だ」「神殿の存在は、神様の祝福のしるしだ」と考えていたようです。
神殿がユダヤの誇りであり、神殿の存在が自分たちを保証してくれると考えていたのです。
つまり、神殿が信仰の対象になっていたのです。

負の歴史が意味することは?

「何十年もかけて、いくつもの立派な石が積み上げられて造られた神殿でさえも、破壊される時が来る」というイエス様の預言は、今の私たちにとってどういう意味があるのでしょうか?
私には、必死の努力で積み上げてきたものを信頼すること、目に見えるものを過度に信頼することへの警告のように聞こえます。

もちろん、神様は私たちの努力や目に見えるものを否定しているわけではありません。
必死の努力によって何かを成し遂げることにも、大きな意味や価値があるはずです。
しかし、そういうものが私たちに変わらない喜びや平安を与えてくれるわけではないということも、また確かなことです。

努力して積み上げてきたキャリアや財産が、何かをきっかけにして一気に崩壊してしまうこともあります。
災害や病気などにより、これまでの人生が180度変わってしまうこともあります。

しかし、目の前の現実や周りの状況がどれだけ変化したとしても、たった一つだけ本当に変わらないものがあります。
それは、主なる神様の存在とそのお方から注がれている愛です。

ユダヤの歴史を見れば、そのことがよくわかります。
ユダヤという民族は祝福の民でありながら、これまでに数々の困難にさらされてきた民でもあります。

旧約時代のバビロン捕囚、新約時代の神殿の破壊、その後の迫害の歴史などを見ると、なぜ神様はそこまでユダヤの民を苦しめるのかと思いたくなるかもしれません。
しかし、当然、神様はユダヤを見捨てたわけではありません。
そういう悲惨な歴史が意味していることは、それでも神様は、苦しむ者と共にいてくださる愛の神様であるということです。

産みの苦しみを経て…

イエス様が神殿の破壊を予告したとき、弟子たちは、神殿が破壊される時期や前兆について、関心を抱いていました。
それについてイエス様は、多くの偽キリストが現れたり、戦争や災害、飢饉が起こると答えましたが、同時に、そういうことはすべて「産みの苦しみの始まり」だとも言われました。

イエス様が言われるように、この世界では自分が神だと言い張る存在や、国や民族同士での争いにより、いろんな問題が起こっています。
北朝鮮やミャンマー 、アフガニスタンといった地域では、人間の命が軽く扱われてしまっています。

私たちが生きる世界では、人間によってあらゆる悲劇が起こっていて、目に見える現実というのは辛く悲しいものがあります。
しかし、それらの苦しみが「産みの苦しみ」であるということもまた確かなのです。

産みの苦しみというのは、子供を出産する時に母親が感じる苦しみです。
出産は人間が感じられる中で最大の苦しみだとよく言われますが、それでも人間が子供を産むのはなぜでしょうか?
それは、産みの苦しみが破滅に向かう苦しみではなく、新しい創造に向かう苦しみだからです。
産みの苦しみは新しい命へのプロセスなのです。

聖書はこの世界が破滅に向かっているのではなく、イエス様によって回復し、完成に向かっていると教えています。
イエス様の到来によって、神の国はすでに始まっているのです。
この世界がどのように移り変わったとしても、そこで起こっている苦しみや痛みに神様は寄り添ってくださるお方です。
そしてまた、産みの苦しみを経て、この世界が神の国として完成に至るまで、神様は私たちを助け、導いてくださるお方なのです。