自分自身を証言する言葉
キリストはご自分のことを「わたしはまことのぶどうの木」だと言いました。
新約聖書にある4つの福音書の中で、ヨハネによる福音書は、キリストが何をしたのかということよりも、誰であるのかということが強調されています。
そのため、ヨハネによる福音書には、キリストを含め、人々が語った証言のような話が多く記されています。
この福音書の中には、キリストが自分自身を表すために「わたしは◯◯である」と語られた言葉が、全部で7つ出てきます。
「わたしは命のパンである」、「わたしは世の光である」、「わたしは門である」、「わたしは良い羊飼いである」、「わたしは復活であり、命である」、「わたしは道であり、真理であり、命である」、そして、今日分かち合う「わたしはまことのぶどうの木である」の7つです。
このようにキリストが「わたしは◯◯である」と語っているところは、聖書の中でも、特に重要な箇所と言えます。
なぜなら、この言葉は、他の誰ならぬキリストが自分で自分のことを直接、証言しているからです。
私たちは、自分自身のことを紹介する時に、名前を言ったり、年齢や出身地を言ったりすると思います。
例えば、私の場合だと「わたしは、實方秀太です。現在39歳で、出身は横浜です。」などと紹介するでしょう。
こういう名前や年齢は、客観的な情報だと言えます。
聖書には、キリストの出生地や出身地、両親の名前など、そういうデータのようなことも書かれていますが、それよりも重要なことは、キリストがどういう方であるのかという部分です。
そういう意味でも、キリストが自分自身について語った言葉がふんだんに書かれているヨハネによる福音書は重要な書物であり、これらの言葉を通して、キリストについてもっと深く深く知ることができるのです。
元祖ぶどうの木、イスラエル
それでは、今日は「わたしはまことのぶどうの木である」という言葉を通して、神様がどのような方であるのか、分かち合っていきたいと思います。
旧約聖書の中にも、ぶどうの木に例えられているものがあります。
ここでぶどうの木というのは、イスラエルの民を指しています。
神様はぶどうの木であるイスラエルの民をエジプトから解放して、カナンという地を与えてくださったことが語られています。
これは、エゼキエルという預言者によって語られた言葉です。
ぶどうの木であるイスラエルは、実を結ぶ立派なぶどうの木になるように、水が豊かな良い土地に植えられました。
しかし、その根は引き抜かれて、実はもぎ取られ、葉はすべて枯れてしまうだろうとエゼキエルは語っています。
その意味は、ぶどうの木であるイスラエルは他国(バビロン)に攻撃されて、国が失われてしまうということです。
つまり、ぶどうの木であるイスラエルの滅亡を預言した言葉です。
多くの預言者たちは、こういうことが神様による裁きとして起こると語ったのです。
このように、旧約時代でぶどうの木と言うと、その多くは、イスラエルのことを指して使われた言葉です。
シン・ぶどうの木、キリスト
しかし、新約時代になり、キリストは「わたしはまことのぶどうの木」だと言われました。
「まことの」とあるように、キリストこそ本当のぶどうの木だということです。
旧約時代、神様はイスラエルという民族をぶどうの木として、この地に植えられました。
アブラハムという1人の人物から始まったイスラエルは、ぶどうの木として成長していきました。
先ほどの詩篇にあったように、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時、神様はイスラエルをカナンの地に導き、ぶどうの木をそこに植え直してくださいました。
しかし、カナンの地で生活する中で、イスラエルは自分たちを作り、ここまで導いてきた神様ではなく、もともとカナンにあった神様をもっと頼りにしていくようになりました。
偶像崇拝に陥ってしまったということです。
そして、BC7世紀に、イスラエルはバビロンという国に滅ぼされてしまいます。
神様が植えた神の民であるぶどうの木が、抜き取られてしまったのです。
しかし、それから数百年経った時に、神様はこの地に新たにぶどうの木を植えてくださいました。
それが、イエス・キリストです。
本文の1節に「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と書かれていました。
その通り、農夫である父なる神様は、独り子であるイエス様をぶどうの木として、この地に与えてくださいました。
このぶどうの木は、かつてバビロンに滅ぼされたイスラエルのように、抜き取られてしまうようなことはありません。
永遠に変わらないぶどうの木として、今も存在し続けているのが、キリストなのです。
枝の運命
神の民であるイスラエルが滅ぼされた後、神様はまた新しく神の民を造られました。
それが、教会です。
本文の5節で、キリスト「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と言っています。
ここであなたがたというのは誰のことでしょうか?
この言葉は、最後の晩餐と言われる場面で語られたものです。
となると、そこにいたのは、イエス様の弟子たち(十二弟子)です。
この弟子たちの集まりが、後に、教会の始まりとなりました。
つまり、あなたがたはその枝であるという言葉は、教会である私たちに対して語られている言葉として聞くことができます。
私たちはぶどうの木の枝です。
木の枝にとって、最も重要なことは何でしょうか?
枝が枝として存在し続けるために、絶対に必要なことは、木につながっていることです。
いくら丈夫で立派な枝であったとしても、木の幹から離れてしまったら、枝の命もそこで終わってしまいます。
その時、枝についていた実は枯れてしまうし、枝としての役割も終えてしまいます。
この前、家から教会に車で向かっている時、歩道に大きな木の枝が倒れていたことがありました。
犀川沿いの大通りに、たくさん桜の木が植えられています。
今はもうほとんど散ってしまっているが、倒れていたのは、一つの車線を塞ぐくらい大きな枝でした。
枝には桜の花もたくさん実っていたが、おそらく風が強くて、枝が折れてしまったのだと思います。
それですぐに私は、そこにある交番に行って、事情を話しました。
そうすると、何時間か後にそこを通った時には、すでに枝は片付けられていました。
このように、どんなに丈夫で立派な枝であったとしても、木から離れてしまった時に、枝としての命は失われてしまうのです。
だから、キリストはこの場面で、枝である私たち教会に対して、とても大切なこととして、何度も語っている言葉があります。
それが「わたしにつながっていなさい」という言葉です。
枝が実を結ぶためには、必ず木の幹につながっていなければなりません。
キリストの言葉の中に、実を結ぶという話が何度か出てくるが、ここでキリストは「実を結びなさい」とは言っているわけではありません。
あくまでも、キリストが言っていることは「わたしにつながっていなさい」ということです。
どんな枝であっても、木につながっていれば実を結ぶことができるからです。
実りとは?
それでは、実を結ぶというのはどういうことでしょうか?
私たちにとっての実り(fruit)とは何でしょうか?
一般的には、実りというと、目に見える成果みたいなイメージです。
野菜や果物の実であったり、日本語だと努力が実ると言ったりもします。
なので、実りというと良い結果、成果を表す言葉です。
そうだとすれば、キリストにつながっていれば、いい大学や会社に入れたり、お金もたくさん稼げて、いい家に住めたりするようになるということでしょうか?
もちろん、そういうことも、恵みとして神様は与えてくださいますが、ただ、神様は私たちに良い結果や成果を求めているわけではありません。
ここでキリストが言いたかったことが何であるのか、15章の続きを見るとわかります。
15章9節以降を読むと、そこでキリストが語っていることは、互いに愛し合いなさいということです、
木の枝が命を得るというのは、愛を知るということです。
私たちがどれだけ大切であり、尊い存在であるのか、神様を知ることでわかるようになっていきます。
神様の愛を知って、その愛の中に留まっている時に、私たちは人間らしく生きられるように回復していくことができるのです。
そのために必要なことは、まず、木であるキリストにつながっていることです。
キリストにつながることで、私たちは神様の愛に満たされ、また、その愛でお互いに愛することができるようになるという、素晴らしい実りを結んでいくことができるのです。