牧師ブログ

「命と死に向き合う」

【ヨハネによる福音書12:1-8】

1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

死が迫る緊迫の時

今日分かち合うのは、過越祭という祭りの六日前に起こったこと出来事です。
過越祭はユダヤの三大祭りのうちの一つで、毎年、多くの人々がお祝いする大切な時です。

祭りというと、屋台があって、美味しいものがいっぱい食べられるような祭りを思い浮かべるかもしれが、ユダヤ教の祭りはそういうものとは違います。

過越祭の起源は、旧約聖書のモーセの時代に遡ります。
モーセの時代、イスラエルの民は、エジプトで何百年もの間、奴隷として暮らしていましたが、神様はエジプトの王であるファラオに働きかけて、イスラエルの民をエジプトから救い出してくださいました。
そのことを記念して、お祝いするのが過越祭です。

過越祭は、今のカレンダーでいうと3月末くらいにある祭りで、エルサレムで行われます。
その祭りに向けて、キリストは弟子たちと一緒にエルサレムに向かっていたが、その前に、キリストにはどうしても会っておきたい人がいたようです。
それが、マリアとマルタという姉妹と、その兄弟のラザロの一家です。

彼らが住んでいたのは、ベタニヤという町で、エルサレムから数キロ離れたところにありました。
おそらく、キリストは次の日にはエルサレムに行こうとしていたのだと思います。

このように、キリストは過越祭を祝うために、エルサレムに向かっていました。

ただ、この時キリストは、ユダヤのリーダーたちから指名手配されていて、もし見つかれば殺される危険性がありました。

過越祭が行われるエルサレムというのは、ユダヤ教の本拠地でした。
実際に、キリストはこの後エルサレムに入り、そこで逮捕され、十字架で殺されることになります。
つまり、今日分かち合う場面は、キリストの死が直前に迫った緊迫した時だったということです。

いくつかの不可解な点

ただ、弟子たちは、そのことに気づいていなかったようです。
これまでに、キリストから直接、苦しみを受けて殺されるという話を何度か聞いてはいましたが、誰も本当にそうなるとは信じていませんでした。
その証拠に、彼らはエルサレムに向かいながら、誰が一番偉いのかと議論していた。
彼らの関心は、キリストが王となった時に、誰がその側近になるに相応しいかという序列のことでした。

しかし、そんな中で、キリスト以外に1人だけ、キリストの死を予感し、その日を備えた人物がいました。
それが、マリアという女性です。

一家は、キリストと一緒に夜ご飯を食べることになりましたが、マリアは突然、食事の席に着いているキリストのところに、高価なナルドの香油を一リトラ持って来ました。
香油というのはアロマオイルのようなものですが、マリアはそれをキリストの足に塗り、自分の髪でその足を拭いました。

これらのマリアの行為には、不可解なところがいくつかあります。
この時にマリアが使った香油が、とても高価な代物だったということです。

マリアがキリストに注いだ一リトラという量は、だいたい330gくらいで、金額にすると、300デナリオンほどです。
300デナリオンというのは、当時の労働者の年収に相当する額で、今の価値では300万くらいでしょうか。

当時のユダヤ人女性にとって、香油というのは、嫁入り道具の一つでした。
マリアはその全部かほとんどを、キリストのために使ってしまいました。

また、香油を足に注ぐという行為は、当時の風習にはなく、ユニークなことでした。
さらには、マリアはキリストの足に油を注いだ後、それを自分の髪の毛で拭いましたが、当時のユダヤで、人前で髪をほどくというのも、普通はやらないことだったようです。

このように、マリアがキリストに対してやったことには不可解な点が多く、実際に周りにいた人々は驚きの目で見ていました。

そういう中でも、私が特に不思議に感じることがあります。
それは、この場面で、マリアの言葉が一言も書かれていない点です。
もしかしたら、実際には何か言葉を発していたかもしれませんが、この記事を書いたヨハネは
、マリアがやった行為だけを淡々と書き記しています。

ひとりキリストの死を思う

一体、マリアはどのような思いで、香油を注いでいたのでしょうか?
マリアがしたことに対して、初めに反応したのは、キリスト弟子の1人であるイスカリオテのユダでした。

ユダは「なぜ、香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」とマリアを責めました。

キリストはそのように言い放ったユダに対して、こう言われました。

イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(7-8節)

この言葉から、マリアがどういう思いで香油を注いだのかがなんとなく想像することができます。
マリアが香油を注いだのは、キリストの葬りの日のためでした。
つまり、マリアは、キリストの死が近いことを感じていました。

食事の席にいた人々は、まさかキリストが殺されるとは思ってもいなかったと思いますが、マリアだけは違いました。
マリアは、これからキリストが受ける苦しみと死に向き合っていました。

300gもの香油を一気に使うということは、普通の使い方ではありませんでした。
もし、そのように香油を一度にたくさん使うとしたら、それは遺体を埋葬する時です。
マリアがしたことには、キリストの死を備えるという重要な意味があったのです。

自分と向き合うこと

マリアがキリストの死と向き合っていたということは、キリストの命と向き合っていたということでもあります。

マリアがやったことに対して、ユダは「貧しい人のために使うべきだった」とマリアを責めましたが、ユダの心は別のところにあったことを、聖書は明らかにしています。
6節に「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」とあります。

この時、ユダが心にかけていたのは、貧しい人々のことではありませんでした。
ユダは弟子たちのお金の管理を任されていましたが、その中身をごまかしていました。
ユダは自分の利益のために、イエス様の弟子であるということを利用していました。

しかし、マリアは違いました。
キリストの命と死に向き合っていました。
キリストの命と死に向き合う中で、マリアが至ったことが、一リトラの香油をキリストに注ぐという行為でした。

この聖書箇所からよく「価値あるものをキリストに捧げましょう」というメッセージを聞くことがあります。
もちろん、マリアのように何か価値あるものを捧げることはとても尊く、意味のあることです。

ただ、その前に必要なことがあります。
それは、マリアがしたように、キリストの命と死に向き合うことです。
キリストの命と死に向き合うことは、私自身の命と死に向き合うことでもあります。

何のためにキリストは死なれたのか? キリストの死は私の人生とどういう関係があるのか? なぜ私には命が与えられているのか? 私の人生にはどんな意味があるのか?

四旬節の期間、キリストの死を見つめながら、自分自身と向き合う時となることを祈ります。