主人の不可解な言動
この箇所は、キリストがぶどう園のたとえを用いながら、天の国(=神の国)について語っているところです。
天の国(=神の国)というのは、死後の世界のことではなく、神様が治める世界のことです。
なので、クリスチャンにとっては神様と一緒に生きる世界が天の国であり、神の国であると言うことができます。
このたとえ話の結論が、16節に書かれています。
「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
実はこの言葉は、今日の本文の直前、19章の最後の節でも語られています。
「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マタイ19:30)
前後の順番は入れ替わっていますが、言っていることは同じことです。
つまり「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」ということを伝えるために語られたのが、ぶどう園のたとえだということです。
それでは、ここで言われている「先にいる者」とか「後にいる者」とは何を指しているのでしょうか?
たとえ話の中身を見ていきましょう。
このたとえは、ぶどう園の主人が、そこで働く人を探すために夜明けに広場に出かけていくところから始まります。
主人が向かったのは、日雇い労働者が集まる広場でした。
そこには、その日の仕事をもらうために、多くの人々が集まっていました。
夜が明けた頃に主人が広場に行くと、すでにそこには人が集まっていました。
主人は朝早く来ていた人々を、1日1デナリオン(≒1日の生活費)の賃金をあげる約束で雇い入れ、彼らをぶどう園に送りました。
その後また、主人が9時頃に広場に行ってみると、何もしないで立っている人々がいました。
それで主人は、相応しい賃金をあげる約束で彼らを雇い、ぶどう園に送りました。
その後も主人は、12時、3時、5時とそれぞれ広場に出かけていき、同じようにそこにいる人々を雇い、ぶどう園に送りました。
夕方の6時になり、1日の仕事が終わりました。
そうすると主人は、現場監督に対して、労働者を集めて、彼らに賃金を払うように命じました。
この時主人は、まず、最後に来た労働者(=5時から働き始めた人々)に給料を払い、それから最初に来た労働者(=朝早くから1日中働いた人々)まで順番に、賃金を払いました。
主人は5時から働き始めた人に、1デナリオンを賃金として支払いました。
その後、朝早くから働いている人々が賃金をもらう番になり、彼らは当然、自分たちはもっと多くのお金をもらえると期待していました。
しかし、実際に受け取ったのは、5時から働き始めた人々と同じ、1デナリオンでした。
主人は朝早くから1日中働いていた人にも、1時間しか働いていない人にも、同じように1デナリオンずつ渡したのです。
当然、朝早くから働いていた人々は憤慨しました。
「自分たちは朝から一日中、暑い中、頑張って働いたのに、なんで最後に来た連中と同じ扱いをするのか」と。
彼らの怒りは至極真っ当で、当然のことのように思います。
そんな扱いをされたら、誰も働きたくなくなるでしょう。
これに対して、主人は「あなたに不当なことはしていない。自分の分を受け取って帰りなさい。」と答えました。
このように、主人は自分のやったことを正当化したのです。
労働者からしたら不条理であり、不当な扱いに見えます。
この主人の不条理さは一体何を意味しているのでしょうか?
フェアな競争社会
この話は天の国のたとえ話です。
ここに出てくる主人というのは、神様のことを指しています。
そして、主人に雇われて、ぶどう園で働いた労働者というのは、私たちのことです。
朝早くから働き口を見つけて、1日働くことのできた人は、労働市場においては勝者です。
それとは反対に、5時まで広場にいた人たちは、6-7節で「だれも雇ってくれないのです」と主人に答えているように、彼らは、その時間まで取り残されていた敗者です。
決して彼らは怠けていたわけではなく、働きたくても働き口が見つからなかった弱者なのです。
彼らが最後まで雇われなかったのには、色々な理由が考えられます。
何か身体的、能力的に問題があったのかもしれませんし、その人たちに合った仕事がマッチングできなかっただけかもしれません。
はたまた、他の人たちがたまたま先に選ばれただけで、特段大きな理由はなかったかもしれません。
とにかく、具体的な理由はわかりませんが、5時まで広場にいた人々は、取り残されていた人々であり、労働市場において、誰からも必要とされなかった人々です。
5時に来て、1時間しか働いていないので、仕事の成果も一番少なかったでしょう。
彼らのような人たちのことを、キリストは「後にいる者」だと言っています。
そうだとすると「先にいる者」というのは、最初に選ばれて、朝早くから働いていた人たちのことです。
彼らは労働市場においては、身体的に、能力的に優れていた人たちなのでしょう。
彼らは1日中ぶどう園で働いたので、当然、一番多くの成果を残したはずです。
だから彼らは、朝早くから働いて多くの成果を出した自分たちが、5時にやって来て、ほとんど成果を出していない人々と一緒にされることに、腹が立って仕方がありませんでした。
この社会は競争社会なので、当然、能力や成果によって評価され、そこには序列というものができます。
この社会は、私たちがやったことの結果によって、価値が決まる社会です。
そういう意味では、はっきりとした基準に基づいて評価されるフェアな社会だと言えるかもしれません。
不条理の中にある愛
しかし、主人は「先にいる者」に対しても、「後にいる者」に対しても、同じ賃金を支払いました。
彼らを同等に評価し、同等に扱いました。
これが意味していることは、神様は私たちのことを能力や働きでは見ておられないということです。
神様は、私たちにどんな能力が備わっているか、どれだけ働き、どれだけ成果を残したかによって判断される方ではありません。
キリストが公に宣教の働きを始める時、洗礼者ヨハネから洗礼を受けましたが、その時に天から聞こえてくる声がありました。
「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』だと言われた。」(マタイ3:17)
この声は天の父なる神様の声でした。
父なる神様は、キリストのことを「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」として見ていました。
ただ、この時点でキリストはまだメシアとしての実績を何一つ残してはいませんでした。
まだ何も成し遂げていないのにも関わらず、父なる神様は「愛する子」だと言われたのです。
神様は私たちのことも、同じように見ておられるでしょう。
そうだとしたら、神様は私たちのことを決して、能力や実績で判断することはありません。
もちろん、私たちが何かを頑張ることや努力をすることは素晴らしいことであり、意味のあることですが、だからと言って、神様はその結果によって私たちの価値を定めているわけではありません。
私たち一人一人の価値は、キリストがすでに十分に証明してくれました。
私たちのために十字架にかかり、その命を差し出すほどに、私たちの命は尊く、私たちの存在には価値があるのです。