聖霊によって導かれた出来事
キリストが宣教の働きを公に始める直前、悪魔から誘惑を受けました。
この出来事は、1節によると、霊に導かれて起こったものでした。
つまり、神様がキリストを導いて、悪魔から誘惑を受けるようにさせた、ということです。
なぜ神様はそんなことをしたのでしょうか?
このことを考えるときに、ヒントとなる御言葉があります。
神の子(キリスト)がこの世に来られた大きな目的の一つは、悪魔の働きを滅ぼすことにありました。
実際に、キリストが悪霊に取り憑かれている人々と出会い、彼らから悪霊を追い出す場面が福音書の中によく出てきます。
そのように、キリストが悪霊を追い出すという出来事は、ただキリストが人々を癒し、助けてくださる方ということだけではなく、誰がこの世を支配するものであるのかを明らかにする出来事なのです。
キリストは、この世を本当に支配しているのは誰であるのかを明らかにする存在なのです。
キリストが公に宣教の働きを始める前に、聖霊によって悪魔から誘惑を受けるように導かれた出来事は、キリストが悪魔の働きを滅ぼすために来られたメシアであることを証明するための出来事だったのです。
誘惑のタイミング
それでは、キリストは荒れ野で悪魔からどのような誘惑を受けたのでしょうか?
まず、キリストが誘惑を受けたタイミングについて見てみましょう。
悪魔はキリストが荒れ野にやってきてすぐに、誘惑を仕掛けたのではありませんでした。
キリストは荒れ野に着くと、40日間の断食を始めました。
私も何度か断食をした経験がありますが、断食するとただお腹が空くだけではなく、体も心もだんだん弱くなってきます。
普段、当たり前のようにやっている階段の登り降りや話すことも辛くなってきます。
同じように、キリストもお腹が空きましたし、おそらく、体も心も弱くなっていったのだと思います。
悪魔がキリストに近づいてきたのは、まさにこの時でした。
悪魔は元気一杯の時ではなく、40日間断食して、弱くなっている時のキリストを誘惑したのです。
このように、悪魔は私たち人間の弱さにつけいって、誘惑をしてきます。
疲れている時、落ち込んでいる時、感情的になっている時など、私たちの体や心が弱くなっている瞬間を待って、狙っているのです。
これのどこが誘惑なのか?
キリストは悪魔から3つの誘惑を受けました。
①「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」
②「神の子なら、飛び降りたらどうだ」
③「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」
このうち、1つ目と2つ目の誘惑は、あまり誘惑には感じません。
なぜ石をパンに変えることが誘惑なのでしょうか?
空腹を満たすことは悪いことでも何でもありませんし、石をパンに変えても、別に誰かを傷つけるわけではありません。
これと同じように、天使が助けてくれるから飛び降りたらどうだという2つ目の誘惑も、罪とは何の関係もないように思えます。
ただ、これこそ悪魔のやり方です。
悪魔は悪魔の顔をして、私たちに近づいてくるのではありません。
だからこそ、誘惑なのです。
1つ目と2つ目の誘惑を見るとわかるように、悪魔はキリストに何か大きな罪や過ちを犯させようとしたのではありません。
それでは悪魔の狙いはどこにあるのでしょうか?
悪魔の本当の狙い
1つ目の誘惑に対して、キリストは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」と答えました。
つまり、悪魔の狙いは「人をパンだけで生きるようにさせること」にありました。
ここで「パン」というのは、ただ食べ物だけではなく、私たちの体や心を満たしてくれるあらゆるもののことに置き換えて考えることができます。
悪魔の誘惑はこうです。
「こんなに空腹で苦しんでいるのに、神はあなたのことを助けてくれないの?」
「あなたには石をパンに変える力があるんだから、今すぐにパンを手に入れればいいじゃないか?」
「あなたが欲しいと思ったものを手に入れることで、あなたは幸せになれるんだよ」
このように、悪魔は私たちに「自分が願うものをその通りに手に入れて生きることこそが、最高の人生だ」という考えを抱かせようとしているのです。
私たちがパンばかりを求め、それだけで自分の人生を満たし始めると、「ああ、別に神なんていらないんじゃない?」「神なしでも私は十分にやっていけるな」という思いになり、神様から離れていきます。
また、2つ目の誘惑については、キリストは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」といって誘惑を退けました。
つまり、悪魔の狙いは「人が神様のことを試すようになること」にありました。
なぜ神様を試すことが誘惑なのかというと、神様をテストするということは、人間の側で神様のことを合格か不合格かを決めるということです。
神様を信じる価値があるかどうか、神様が本当に必要かどうか、神様のことをテストするのです。
そうすると、私たちは神様にいつも100点の解答、すなわち、自分の思い通りに物事が進むことを求めるようになります。
ただ、いつも神様が100点満点で答えてくれるわけではありません。
そうすると「ああ、神様は私の思いに応えてくれなかった」、「神様は私のことなんか気にかけていなんだ」という思いになり、神様に不信感を抱くようになります。
このように、悪魔の目的は、法律を犯させたり、道徳的に問題のある行動を取らせたりすることではなく、私たちを神様から引き離すことにあるのです。
知らないうちに…
悪魔は私たちを神様から引き離すだけではなく、最終的に、自分の支配下に入れようとしています。
それがまさに、キリストが受けた3つ目の誘惑です。
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」という誘惑に対して、キリストは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」と答えました。
「わたしを拝みなさい」というのは、いかにも悪魔らしい誘惑です。
悪魔は、パン以上のもの、世界の権力と繁栄をちらつかせながら、神ではなく私を拝むようにとキリストを誘惑したのです。
この誘惑は「神なんかを礼拝して、神に仕えて生きるよりも、私に仕えて生きる方がもっとたくさんの物を得ることができて、幸せになれるよ」というお誘いです。
ここで悪魔は「私を拝みなさい」と言っていますが、私たちは悪魔のことを悪魔だと分かって拝むわけではありません。
いつの間にか、わからないうちに悪魔を礼拝するようになっているのです。
このことは、旧約時代のイスラエルの民の歩みによく表されています。
モーセの時代、エジプトを脱出したイスラエルの民は、神様が約束したカナンという土地に辿り着き、そこで新たに生活を始めました。
このカナンの地で、イスラエルの民は神様から離れていってしまいます。
もともとカナンでは「バアル」という偶像が神として拝まれていました。
このバアルという偶像は、豊穣と繁栄の神でした。
カナンで生活が始まると、イスラエルの民は主に農業によって生活を営むようになりました。
そうすると、豊穣と繁栄を求めて、バアルを求めるようになり、自然とバアルという偶像を拝むようになり、神様から離れていってしまったのです。
悪魔に打ち勝ったイエス
ここまで見ると、悪魔は巧妙な策略家であり、どうやったら悪魔に打ち勝つことができるのかと思うかもしれません。
しかし、大切なことは、キリストが悪魔の誘惑をすべて退け、悪魔に打ち勝ったという事実です。
私たちは、悪魔とその誘惑を恐れ過ぎる必要はありません。
なぜなら、私たちと同じ人間の姿で生まれ、誘惑を受けたキリストが、死から復活したことを通して、悪魔に対して完全に勝利したからです。
私たちは、この世で肉体を持って生きていく限り、悪魔の攻撃に晒されながら生きていくことになります。
しかし、いずれ完全に勝利する日がやってくるのです。
聖書は、私たちもキリストと同じように、新しい体に復活する日が来ることを約束しています。
キリストは悪魔の働きを滅ぼすために、この世に現れたお方です。
キリストの再臨と共に、悪魔が完全に敗北するその日まで、私たちはキリストと共に生きていくことができます。
たとえ誘惑に負けることがあっても、道から外れることがあっても、キリストの勝利、すなわち私たちの勝利ははすでに決定事項なのです。