キリストのマナー講座?
ある安息日の日、キリストはファリサイ派の議員の家で行われる食事会に招かれていました。
しばらくすると、キリストはそこに招待される人々を見ながら、あることに気づきました。
それは、招待客がみんな上席を選んで座っていたことです。
上席というのはかみざのことで、普通は年長者や高い立場にある人が座りますが、その時は用意された席が上席から順に埋まっていったようです。
そんな様子を見ながら、キリストは婚宴のたとえ話を語り始めました。
キリストは婚宴に招待された時、自分より身分の高い人が招かれているかもしれないから、上席ではなく末席、すなわちしもざに座るように言いました。
そうすれば、恥をかくことなく面目を保つことができると。
これだけを聞くと、単なるマナー講座のようにも聞こえますが、キリストがここで話していることは「謙遜に生きましょう」みたいな道徳的なお話ではなく、神の国、神様の救いの話です。
キリストは、今、招かれている食事の席の場を、神の国に重ね合わせて話しておられます。
招待客がこぞって上席を選ぶ姿を見ながら、キリストは、彼らの神様に対する救いに対する態度を重ね合わせて、見ておられたのです。
神の国と上級国民
その日、食事の席の場が、上席から順に埋まっていたっということは何を表しているでしょうか?
それは、招待された人々が「自分こそ上席にふさわしい存在だ」と各々考えていたということです。
彼らは皆、自分こそこの場、この席にふさわしい上級国民だと自負していたのです。
「この度はお招きいただき、ありがとうございます」ではなく、招かれて当たり前でしょ、と。
そういう姿を見ながら、キリストは「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました。
この言葉の意味は、そのように、自分こそこの場にふさわしいと思い上がっている人は、神の国に入ること、神の救いを受けることは難しいということです。
婚宴に招かれることも、上席に座ることも当たり前だという態度は、神の国ではふわさしくないのです。
なぜなら、神の救い、天国というのは、身分や地位など、一定の条件を満たすことでゲットするようなものではなく、ただ、神様の側から私たちに与えられるものだからです。
こちら側のステータスや能力に関係なく、誰であっても神に招かれて初めて入ることができるのが神の国です。
神様の諸事情により…
招待客がこぞって上席を選んで座っていたのは、彼らの中に、自分はそれだけの社会的身分と権威を持っていると自負していたからでしょう。
こちら側にそれなりに理由があって、その結果として、当然受けるべきものがあるという論理です。
こういう考え方は2000年前のユダヤに限らず、時代や場所を問わずに当たり前のように受け入れられている思考です。
これだけの点数を取ったから、この学校に入ることができる。
これだけの力を持っているから、この会社に入ることができる。
これだけのことをしたから、受けるべきものがある。
仏教的に言えば、原因があって結果があるという因果応報の考えですが、神の国においてはそうではありません。
現に、神様は私たちの側に神の国に招かれる(救われる)にふさわしい理由があって、私たちを招いているわけではありません。
こちら側の事情ではなく、神様の諸事情によって招かれるのが、神の国です。
だから聖書は、救いは信仰によるものだと言っているのです。
この時に勘違いしてはならないのは、立派な信仰があって救われるということではない、ということです。
この論理は、結局、因果応報の考えから出てくるものです。
そうではなく、褒められるような立派な信仰がなくとも、それでも神様が招いてくださり、受け入れてくださるのが神の国です。
だから、救いは恵みなのです。