働き者と怠け者?
今日の本文は、キリストがベタニアという村にやってきた時の出来事を記しています。
この村には、キリストが御言葉を伝えるために、場所を提供してくれる一つの家ーマルタとマリアという姉妹が住む家ーがありました。
キリストが村にやってくると、二人のうち、マルタがキリストを出迎えました。
そして、キリストやその言葉を聞くために集まってきた人々のことを、一生懸命にもてなしました。
それに対して、マリアの方はと言えば、キリストが村に来た時も家の中にいて、また、キリストの足元に座って、その話に聞き入っていました。
この両者の姿を見ると、とても対照的です。
働き者のマルタと怠け者のマリアのようにも見えます。
一見、マルタのようにキリストのために、人々のために必死に仕えて働くことこそ、大切なことのように思えます。
しかし、キリストはこの二人のうち、良い方を選んだのは”マリア”ほう方だと言われたのです。
なぜキリストはマリアの方に軍配を上げたのでしょうか?
ここでキリストが言われた「ただ一つの必要なこと」とは何のことでしょうか?
自ら進んで引き受けた奉仕
キリストが村にやってきた時、一人ではなく、弟子たちも一緒でした。
また、キリストの言葉を聞くために、多くの人々が村中から二人の家に押し寄せてきたと想像できます。
そのため、家主であるマルタとマリアは、キリストだけではなく、その弟子たちと、さらには、集まってきた村人たちの世話をする必要に迫られました。
場所をセッティングしたり、食事の支度をしたり、やるべきことは多かったと思います。
このように、キリストを自分の家に迎え入れるということは、私たちが想像する以上に大変なことだったのでしょう。
ただ、マルタにとって、キリストのために働くことは、ただの労苦ではなかったと思います。
弟子たちや多くの人々のことをもてなすことは、マルタにとって、全てキリストに仕える働きだったでしょう。
だからこそ、マルタは誰かから言われたからではなく、自ら進んで人々のために働きました。
おそらくこの時、マルタは用いられる喜びを感じながら、奉仕していたのではないかと思います。
マルタの変化
ところが、少しすると、マルタの心に変化が生じました。
姉妹であるマリアのことが気にかかり始めたのです。
マルタはみんなをもてなすために一人、せわしく働いていましたが、マリアはずっとキリストの足元に座ったまま、話に聞き入っていたからです。
それでマルタはキリストの側に近寄り、こう言いました。
マルタの言い分は、こんなにたくさんの人が集まっているのに、なぜ自分一人だけが働いているのか?
自分だけにやらせて、何もしないマリアはおかしいじゃないか!
ということでした。
ただ、マルタの言動の中には、一つ不自然なところがあります。
それは、マルタがこの話をマリアに対してではなく、キリストに向かってしていることです。
もし、マリアの行動が気にくわないのであれば、直接マリアに対して手伝うように言えばそれで済むはずです。
しかし、マルタはこの話をキリストに向けて話しています。
この時のマルタはどのような心だったのでしょうか?
キリストの視線の中に…
マルタはキリストに「何ともお思いになりませんか」と言っています。
これはつまり「何とか思って欲しい」ということです。
マルタは、自分一人だけにもてなしをしていることを、何とか思って欲しかったのです。
この時、キリストは家の中に集まっている人々に向かって話をしており、その中には、マリアもいたわけです。
おそらく、この時マルタが訴えたかったことは、単にマリアが怠けているということではなく、「自分一人だけこんなに頑張って働いているのに、何で誰も(イエス様さえも)私のことを気にかけてくれないの?(涙)」ということだったのでしょう。
この時のマルタの心について、キリストは「あなたは多くのことを思い悩み、心を乱している」と指摘していますが、本当に、キリストはマルタのことを見ていなかったのでしょうか?
キリストは「マルタ、マルタ」と二度、マルタの名前を呼びながら答えました。
二度続けて、名前を呼ぶことは、ユダヤにおいては親愛の心を込めた表現です。
また、キリストがマルタの取り乱した心を察知していたように、マルタがやっていることや感じていることをよく知っておられました。
マルタは、イエス様さえも自分のことを気にかけてくれないと思っていたかもしれませんが、他ならぬ、キリストこそが誰よりもマルタのことを気にかけておられたのです。
誰一人、キリストの視線の外に置かれている人はいません。
どんな時でも、キリストは私たちのことを見ておられ、その思いを知っておられます。
私たちの心を理解して、受け止めてくださるのがキリストなのです。