脅しの言葉??
イエス様の地上での最終目的地は、エルサレムでした。
エルサレムという言葉には「平和の町」という意味がありますが、本文の中に3度出てくるエルサレムという言葉には、そういう穏やかな雰囲気はありません。
むしろ、それとは正反対の「死」とか「殺す」ということと結び付けられています。
イエス様はそのエルサレムのことを思いながら、ファリサイ派の人々に向かって語っているのが今日の御言葉ですが、その口調はかなり厳しいものでした。
当時、ガリラヤを治めていた領主ヘロデ・アンティパスに対して、イエス様は「狡猾」とか「小心者」という意味を持つ「狐」という言葉を使って、批判しています。
また、35節では、ファリサイ派の人々に向かって「お前たちの家は見捨てられる」(=神殿は崩壊する)とも言っています。
こういう言葉を聞くと、険しい表情で語っているイエス様の姿が想像できますが、ただ、イエス様は、単に彼らに対して憤っていたわけではありません。
これは決して脅しの言葉ではなくて、そこには神様の深い愛が込められているのです。
十字架の愛
33節でイエス様は「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と言っていますが、イエス様が進むべき「自分の道」とはどのような道でしょうか?
イエス様が進まねばならない自分の道の終着点は、まぎれもなくエルサレムでした。
32節に「三日目にすべてを終える」とありますが、この言葉を聞くと、イエス様がエルサレムで十字架にかかり、死ぬ間際に言われた言葉を思い出します。
この地上で、イエス様が最後に言われた言葉は、十字架上で放った「成し遂げられた」という言葉でした。
普通、死というのは「すべて”が”終わった」瞬間に思えますが、イエス様にとっては十字架の死は「すべて”を”終えた」瞬間でした。
イエス様が負った十字架の死は、決して一人の人の死ではなく、すべての人々の救いとなったからです。
イエス様が私たちの罪を代わりに背負い、死なれたことで、再び、私たちと神様との関係が回復したのです。
イエス様はエルサレムに行けば、ただ死ぬだけではなく、十字架刑という酷い死に方をしなければならないことを知っていながらも、それでもなお、十字架の待つエルサレムへと進んで行きました。
ここに、私たちに対する神様の深い愛があります。
それでも見捨てない
また34節を見ると、イエス様は「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」と言っておられます。
親鳥はまだ子供が小さいうちは、自分の羽の下に集めて外敵から守ります。
そのように、イエス様もユダヤの人々を守ろうと何度も働かれました。
福音書に「誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という言葉があるように、イエス様は、たとえユダヤ社会で罪人として除け者にされているような人であったとしても、誰ひとりといて排除することはありませんでした。
しかし、34節の終わりに「お前たちは応じようとしなかった」とあるように、ユダヤの人々、特に宗教指導者たちはイエス様の招きに応じることはなく、最後まで拒絶し続けました。
その結果として、イエス様が「お前たちの家は見捨てられる」と言っているように、AD70年にエルサレムの神殿はローマ軍によって焼き払われ、エルサレムは占領されてしまいます。
「お前たちの家は見捨てられる」という言葉は「すべてが終わった」とも取れる言葉ですが、実はこの言葉の中に、神様の深い愛が隠されてます。
この時、イエス様は「お前たちは見捨てられる」と言ったわけではありません。
見捨てられるのはあくまでも「お前たち自身」ではなく「お前たちの家」なのです。
イエス様は十字架の死に至るまで、人々に拒絶され続けました。
しかし、どんなに拒絶されようとも、イエス様の方から「じゃあもういいよ」と言って、人々を拒絶することはありませんでした。
イエス様は今も「誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と私たちのことを招いてくださっているのです。