人間として生まれた神様
この福音書の冒頭の部分で、ヨハネが強調していることは、イエス様は神様であると同時に人間でもあるということです。
ここで「言」というのはイエス様のことで、ヨハネはこれらの言葉を通して、イエス様が初めから神様として存在しており、この世を想像された神様であることを伝えようとしています。
それと同時に、神様であるイエス様がこの世に人間として生まれてきたということもヨハネは強調しています。
ヨハネはマタイやルカとは異なり、イエス様の誕生について、肉となって私たちのもとに来たイエス様についてシンプルに伝えています。
キリスト教を特に理解しがたくしているのは、この部分かもしれません。
神様が人間として生まれてきたとなると、どうも戸惑いを覚えてしまいますが、この部分にこそ、私たちに対する神様の深い愛が表されています。
暗闇の世界に来られたイエス
イエス様が生まれてきた世について、ヨハネは「暗闇」(1章5節)だと言っています。
その当時、ユダヤを襲っていた暗闇とはどのようなものだったでしょうか?
一つには、国家権力によってもたらされた暗闇がありました。
イエス様が生まれた時、ユダヤはローマの支配に苦しんでいました。
他には、ユダヤの民の間で、特に宗教指導者たちが作り出している暗闇がありました。
民衆は、律法を基準に判断され、その基準に達していないとみなされると、社会の除け者として扱われました。
イエス様はそのように暗闇の中を歩んでいる人々を見ながら、どうされたでしょうか?
「おい、そこで何をしているのか?」「そんなところにいないで、早くこっちの世界に来なさい」と手招きされたわけではありませんでした。
イエス様は、ご自分が想像された世界をリセットすることも、手放すこともされませんでしたし、ただ天から暗闇の世界を見下ろして、嘆いているだけでもありませんでした。
イエス様自ら、暗闇の中に身を投じてくださったのです。
暗闇の中でもがき苦しむ人々のもとに、来てくださったのです。
イエス様の救いは、地上から天上へと脱出させることによってなされるのではありません。
神様は、たとえそこが暗闇の世界であったとしても、神様が造られた世界において、私たちが神様と共に生きることを願っておられるのです。
この世に現れた恵みと真理
しかし、私たちの間に宿られたイエス様のことを人々は頑なに拒みました。
人々はこの世に来られたイエス様を神様として受け入れることはありませんでした。
それどころか、神を冒涜する者として、十字架にかけてしまいました。
これを見ると、神様が人となられた出来事は失敗に終わったように見えます。
しかし、ヨハネはイエス様の姿に「栄光を見た」と証言しています。
ヨハネが見たイエス様は父の独り子としての栄光であり、恵みと真理に満ちているイエス様の姿でした。
その通りに、イエス様が私たちの間に宿られたことにより、恵みと真理がこの世に実現しました。
私たちが恵みではなく、ひたすら自力で生きるのであれば、そこには嘘や偽りが溢れるでしょう。
しかし、神様と共に歩むならば、暗闇の世界であったとしても、神様の愛と赦しの中で、真理の道をゆくことができるのです。