律法学者とやもめ
イエス様は律法学者たちが、長い衣をまとって歩き回ることや広場で挨拶されること、また、会堂では上席に、宴会では上座に座ることを望んでいることを指摘されました。
さらには、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをしているとも言われました。
これらのことが意味することは、律法学者たちが、人々から権威ある存在として認められ、尊敬の眼差しで見られることを願っていたということです。
つまり、人の目に自分がどう映るかということが、彼らの行動基準となっていたのです。
その後に続くのが、一人の貧しいやめもに関する話です。
イエス様が神殿で賽銭箱の向かいに座り、人々がそこにお金を入れる様子を見ていた時、一人のやもめがやってきました。
大勢のお金持ちは多くのお金を入れていましたが、彼女が捧げたのはレプトン銅貨二枚でした。
レプトン銅貨というのは、当時流通していた通貨の中で最小単位のお金であり、その価値は日本円で言えば、数十円に過ぎませんでした。
しかし、イエス様は彼女が捧げた二レプトン銅貨というお金について「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言われたのです。
イエスは見た
こういう律法学者とやもめの姿を通して、受けることのできるメッセージは何でしょうか?
それは、イエス様は一人一人のことを見ておられ、その心を知っておられるということです。
イエス様が明らかにされた律法学者の姿というのは、彼らの偽善的なところでした。
彼らの関心は、人々の目に自分はどう映っているのか、どう評価されているのかということに向けられていました。
ユダヤの人々は彼らのことを「先生」と呼び、律法学者というのは尊敬の目で見られていました。
しかし、イエス様はそういう目に映る表面的なところではなく、彼らの心の奥深くで考えていることを見事に見抜いておられたのです。
それがイエス様の目に映っていた彼らの真の姿でした。
その一方で、イエス様は一人の貧しいやもめのことをどのように見ておられたでしょうか?
人々の目には、彼女が捧げた二レプトンというお金は、はした金に見えたでしょう。
「たった二レプトンに何の価値があるのか?」、「そんなお金を捧げたところで何になるのか? 」と。
しかし、イエス様の目にはそうではありませんでした。
イエス様が見ていたのは、二レプトン銅貨というお金としての絶対的な価値ではありませんでした。
イエス様は、その二レプトンが彼女にとって何を意味するのかを知っておられました。
そのお金が、彼女にとって全ての生活費であることを知っておられました。
今日食べていくにも大変なのに、そのなけなしのお金を捧げたことをイエス様は知っておられました。
それでイエス様は、彼女が捧げた行為について「だれよりもたくさん入れた」と言われたのです。
愛の眼差し
やもめというのは何かしらの理由で夫と行き別れた、離婚したかによって独り身になった未亡人のことです。
彼女がどういう経緯でやもめになったかはわかりませんが、いずれにしても、やもめというのは社会的にとても弱い存在です。
当時のユダヤでは、ただでさえ女性の存在が軽視されていたわけで、独り身のやもめであれば尚更だったでしょう。
律法学者が尊敬の眼差しで見られるのとは正反対に、やもめというのは社会から疎外されていた人々でした。
ここに出てくるやもめだけではなく、イエス様は障がいを抱えている人々や子供たちなど、この社会において片隅に置かれているような人々、軽視されているような人々のこともよく見ておられ、知っておられるお方です。
誰からも見向きもされような人々に対しても、イエス様の眼差しは常に向けられているのです。
だとすれば、私たちはもはや律法学者のように、人の目を意識して自分を必要以上に大きく見せる必要はないのです。
偽善的な生き方というのは、結局は自分を苦しめることになります。
人の目に縛られた生き方というのは、結局は自分を縛ることになります。
私たちのことを愛の眼差しで見ておられる神様が私たちと共におられることを覚えて、生きていきたいものです。