「ダビデの罪」と聞いて、多くのクリスチャンがまず思い浮かべるのが、バトシェバの事件であろう。
ダビデはバトシェバと姦淫し、彼女が子供を宿したことがわかると、夫のウリヤを戦死させた。
ダビデが犯した姦淫と殺人というふたつの罪は、律法によると、いずれも死罪にあたる大きな罪である。
ただし、ダビデの罪の結果として下された神様の裁きを見ると、それ以上に大きな罪だと言えるのが、ダビデの「人口調査」の罪である。
ダビデの罪とは?
つい最近、日本でも人口調査的なこと(国勢調査)が行われたが、古代において、人口調査というのは、主に兵力を把握するだったり、税金を徴収するために行われた。
ダビデの人口調査の目的は、兵力を把握するためだったが、実は旧約聖書の民数記の中でも、同じ目的で、しかも2度にわたって人口調査が行われている。
その時は、モーセによって調査が行われのだが、特にそれ自体が罪だとか裁きが下されたという話はない。
なぜダビデの人口調査だけが、罪に定められたのか?
民数記の中で行われた調査は、神様が直接モーセに命じて行ったものだった。
しかし、ダビデの場合は、自らが思い立って人口調査に乗り出した。
つまり、問題の所在は人口調査という行為自体にあるのではなく、それを行おうとしたダビデ自身にある。
ダビデの時代、イスラエルは政治的にも経済的にも成長を遂げ、どんどん国際競争力を高めていった。
そんな中で行われた調査には、イスラエルがどれだけ強くなったのかを確認するという意味合いがあった。
しかし、イスラエルにおいて戦いというのは、神様の戦いであり、軍事力の問題ではなかった。
神様がご自身が戦い、神様が勝利を与えられるというのが、イスラエルの戦いの基本であるにも関わらず、ダビデは神様の力よりも、軍事的な力を求めてしまった。
言い換えれば、イスラエルを治める神様から主権を奪ってしまった。
ここに、ダビデの罪がある。
士師記の中で、ギデオンという勇士は、敵国135,000人に対して、神様から300人で戦うように命じられたことがある。
神様がそのように命じた理由は、神様がイスラエルと共に戦い、勝利を与えてくださる方であることをはっきりと示すためであった。
実際に、その戦いはイスラエルが劇的な勝利を収めた。
イスラエルの戦いにおいて重要なことは、兵士の数ではなく、神様を信頼する信仰である。
神に対する最大の冒瀆
私たちの目から見れば、バトシェバ事件の方が、姦淫と殺人の罪を犯したという点で、ずっと罪深いことのように思えるが、聖書が言う罪の本質がもっとはっきりと表されているのは、実は、人口調査の方である。
軍事力を求めたというのは、神様ではないものに頼ろうとする不信仰であり、神様を神様として認めないことである。
これこそ、人間の本質的な罪であり、神様に対する最大の冒瀆である。
もし、私たちが親に対して「あんたなんて親だとは認めない!」と言ったとしたら、法律的には裁かれはしないが、親にとっては最も悲しい出来事であり、これは親に対する最大の冒瀆行為である。
いくら子供が良い子だったとしても、親はその一言を言われた瞬間に、ノックアウトされてしまう。
十戒の中でも「父母を敬いなさい」という掟が、人間同士の戒めのうち一番初めに書かれている。
十戒は、人間に対する最大の冒瀆行為は、父母を敬わないことだと教えている。
これと同じように、神様に対して「あんたなんて神として認めない」と言うことは、神様に対する最大の冒瀆行為であり、神様が最も悲しまれることである。
だから、十戒の第一戒は「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」という掟であり、これは「神様を神様として認めなさい」という戒めである。
キリスト教の書物の中に「あなたの神は小さすぎる」という本がある。
まさにこのタイトルの通り、神様を信じる者にとっての大きな問題のひとつは、神様が小さすぎることである。
それは、誤ったレンズを使って神様を見るときに、容易に起こりうる。
もし、私たちが聖書の御言葉ではなく、現実の問題やこの世界というレンズを通して神様を見ると、神様の形が変形してしまう。
そうすると、神様以上に目の前の問題が大きく見え、相対的に神様が小さくなってしまう。
ダビデの関心が、神様よりも軍事的なことに向けられ、神様を小さくしてしまったことで、ダビデは意図せずに、神様に対する最大の冒瀆行為を犯していたのである。
神の誘い? サタンの誘い?
この罪の結果、イスラエルの国全体に3日間の疫病という裁きが下される。
この一連の出来事について、聖書はなんと神様がダビデを罪に誘ったと明らかにしている。
神様がダビデを罪へと誘い、罪を犯したダビデを神様は裁かれた。
これはどう理解したらいいのか、全くもって不可解な話である。
神様がダビデを罪に誘ったのであれば、当然悪いのはダビデではなく、神様であるはずだ。
罪に誘った神様が、その罪に対して裁きを下すのは、あまりにも不当なことではないのか。
私たちはこれをどう理解したらよいのか?
この理解を助ける記述が、旧約聖書の歴代誌という書物の中にある。
そこにもダビデの人口調査の話が同じように書かれているが、歴代誌では、神様が誘ったのではなく、サタンがダビデを罪に誘ったと書かれている。
確かに、聖書には「神は人を誘惑したりなさらない」と書かれているように、神様が人間に直接罪を犯させることはない。
「神様が誘った」ということと「サタンが誘った」というこのふたつの記述は、一見矛盾しているようだが、これは、神様がサタンの誘いを許したという意味に解釈することができる。
実際に、旧約聖書のヨブ記の中でも、神様はサタンがヨブという人物を誘惑し、ヨブは財産や家族を失う憂き目にあっている。
また、今の時代でも、神様はサタンの存在やその働きを許している。
ということは、ダビデの人口調査の場合も、サタンがダビデを罪に誘うことを神様が許されたと理解することができる。
ただ、そうだとしても、私たちはなぜ神様がサタンの働きを許すのかということについても、簡単には理解することができない。
この疑問について、聖書的な答えはどこにあるのだろうか?
わからないものはわからない
この疑問を前にして、私たちが信仰によって取るべき態度は「わからないことはわからない」こととして受け止めることである。
もちろん、クリスチャンは何も考えることなく、盲目的に神様を信じているわけではない。
神様は私たちのことを、神様を自動的に信じるようにはつくっていない。
理性や感情を用いながら、神様のことを知り、信じるようにつくっておられる。
だからこそ、聖書という言葉による書物が与えられているわけだが、そうだとしたら、聖書の言葉を通してでも理解できないことに直面した時、私たちはそこで立ち止まる必要がある。
聖書は決して、あらゆる問いに対する解答集ではない。
なんでもかんでも完全に理解することが必ずしも信仰ではなく、わからないことをわからないこととして受け入れることも、また信仰である。
つい最近、知り合いの牧師の方が、癌によって亡くなられた。
まだ50代前半という若さで、奥さんとまだ未成年の子供を残して、天に召された。
癌が見つかった時、すでに末期状態だったが、それを知った人々は病が癒されるようにとみんなで切に祈った。
しかし、癌が判明してから、2ヶ月あまりで亡くなられたのである。
「みんなで祈っていたのになんで?」「なんで神様は病を癒してくれなかったのか?」
「そもそも、なんで神様は人間が癌で死ぬことを許しているのか?」
一人の牧師の死を前にして、私にはなぜ神様が命を取られたのか、全く理解ができない。
だから、そういう時に私たちは何か理由をつけて、その死を理解したくなる。
そこにはこういう意味があったんだと、死というものを美化したくなる誘惑に駆られる。
でも、その理由も意味も、誰も断言することはできない。
それはすべて、神様の領域だからである。
確かなことは、そこに神様の計画があり、愛があり、御心があるということだけである。
たとえ、今はわからなくても、後でわかることがあるかもしれない。
もしかしたら、最後まで、全然わからないかもしれない。
それでも、神様を信頼して生きていくことが、人間に与えられている完全な道である。