現在、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっています。
あらゆるイベントが自粛され、教会でもその対応が迫られています。
金沢でも日曜日の礼拝自体を中止するところもあれば、しばらくはインターネットによる礼拝に切り替えるところもあります。
そんな中で、教会はこのウイルスの猛威にどう対処するべきでしょうか?
結論から言うと「正しさ」ではなく「愛」によって配慮することです。
感染が拡大している現状に対して、2つの極端な捉え方があります。
①ビビりまくって、もうなんだか身動きが取れなくなる
②「コロナ?なにそれおいしいの?」と言いながら、今までと変わらない生活をする
これは、2つとも不信仰な態度です。
①はウイルスを過剰に恐れ、死という恐怖に釘付けにされ、神さまではなく問題に支配されてしまっている状態です。
恐れや心配を感じることはあるとしても、ウイルスが自分を支配し、自分の言動を導いているとしたら、それは不信仰だと言えます。
これはわかりやすいでしょう。
ただ②が不信仰というのはどういうわけでしょうか?
信仰によってウイルスを無視し「たとえ感染したとしても、必ず神さまが癒してくれるから大丈夫!」という態度は、一見、信仰的なように見えます。
しかし、この態度に潜んでいるいくつかの問題があります。
まず、信仰があったとしても、ウイルスという存在は現実的なものです。
クリスチャンは神さまに守られているから感染しないとか、感染が広がった地域には神の裁きが下されたんだいう声がありますが、これは、霊的ではなく、あまりにも現実を無視した考えです。
神さまを信じている人には、災難も不幸も関係ないのでしょうか?
これだけ世界中でウイルス感染が広がっていれば、クリスチャンでありながら感染した人もどこかに存在しているでしょう。
もちろん、神さまの守りや癒しを期待する信仰は持つべきですが、クリスチャンはウイルスとは無関係だと考えることは、行き過ぎたご利益主義であり、信仰とはかけ離れています。
そして、②に潜んでいるもうひとつの問題は、今回の件を自分だけの問題に限定していることです。
わたし自身も、自分が感染することにはあまり恐れや心配は感じていません。
しかし問題は、自分や家族、教会が感染源になってしまった時に周囲に及ぼす影響です。
教会のメンバーには、重症化しやすい高齢の方もいます。
家族の中で子供たちに感染すれば、通っている保育園もしばらく閉鎖されるでしょう。
教会がある地域の中でも、教会で集まりを持っていることに不安を感じる方もいるでしょう。
つまり、今回の件によって周りの人々が感じていることは、正しいか正しくないかによらず、現実に起こっている事実として受け止めなければなりません。
聖書の中に、こんな話があります。
コリントという教会の中で、同じクリスチャンの間で論争が起こった時、パウロという人はその教会に対して「正しさ」ではなく「愛」によって配慮するように教えました。
少し難しい話になりますが、ある時、コリント教会の中で民族的背景の違いによって「偶像に備えられた肉は汚れているか否か」という論争が起こりました。
信仰がある人(ユダヤ人のクリスチャン)は「世の中に偶像の神なんて存在しないんだから、肉が偶像の影響を受けて汚れることはない。だから食べても大丈夫!」と考えました。
それに対して、これまで偶像に馴染んで生活してきた人々(異邦人のクリスチャン)は「いや、偶像に備えられた肉は汚れている。だから断じて食べるべきではない!」と考えました。
信仰的な「正しさ」によって判断するならば、別に食べても大丈夫ということになります。
そうだとすれば、歪んだ考えを持っている異邦人のクリスチャンを正しく説き伏せなければなりません。
しかし、この話の結論として、パウロが語っていることは「自分の正しさを突き通すのではなく、弱い人々のことを考えなさい」ということです。
パウロは、自分が持っている知識や思想によって、弱い人々の良心を傷つけることは、キリストに対して罪を犯すことだとまで言っています。
それでパウロは、食物のことでそういう人々をつまずかせるのなら、わたしは今後決して偶像に備えられた肉は口にしないと言いました。
パウロは、現に信仰的に誤った考えをしている人々が目の前に存在しているという現実を無視しませんでした。
人々の弱さに寄り添いながら、解決策を見出していったのです。
今回のコロナウイルスの件でも、そうです。
信仰的な正義をかざして、ビビりまくっている人をぶった切ることは簡単です。
しかし、その時に神さまを信じる者に求められているのは、弱い人々のことを配慮することです。
信仰的に正しいことを伝えることは、教会の使命に違いありません。
ただし、周り人々が何を感じているのか、その気持ちに寄り添うことなく、ただ正しさを振りかざすことは信仰ではなく、高慢な態度でしょう。
対応の仕方は、地域や集まりの規模によって異なるのでしょうが、共通して言えることは、正しさだけではなく、目の前の現実を踏まえた上で「愛による配慮」という視点をもって判断することです。(これがなかなか難しい…)
「周りの目を気にして流されること」と「愛によって配慮すること」は、似て比なるものです。
愛による配慮ができるクリスチャンこそ、信仰的に成熟したクリスチャンです。
そういうものにわたしはなりたい。