『誰を畏れ、誰を愛するのか?』
夫婦がお互いに仕え合うためには、キリストに対する畏れを持つことが大切です。
それでは、キリストを畏れるとは、具体的にどのようなことを意味するのでしょう?
聖書において「畏れ」とは、何かによって圧倒的に支配されている状態のことです。
つまり、キリストを畏れるとは、キリストにおいて現された唯一の神さまによって、圧倒的な支配を受けることです。
それは、ただキリストの十字架や復活の話を信じるだけでなく、キリストによる絶大な影響を受けていることを意味します。
そうすることで初めて、人の評価や支配の下で生きることから解放されます。
キリストを畏れる人は、仕事や結婚などを通して自分の価値を必死に追い求める人生ではなく、キリストが十字架で死ぬほどに神さまに愛されていることを信じ、最高に価値ある存在として生き続けることができるのです。
もし、神さまではなく、夫や妻を畏れ、パートナーに絶大な影響を受けるようになると、自分の価値や人生の目的を結婚相手に見出そうとします。
これは、神さまではなく、結婚相手が自分の救い主となっている状態です。
夫や妻が救い主になるということは、自分の存在が相手の絶大な影響下に置かれてしまうということです。
そうすると、ラブラブな時はいいですが、相手に何か失望させられることがあると、傷つくだけではなく、自分の存在価値までも揺るがされることになります。
相手の言動によって、自分の根底から激しく揺さぶられてしまうのです。
結婚相手というのは、あくまでも愛する対象であり、畏れの対象ではありません。
ただ畏れるべきは、私のことを一番よく知っていて、本当に愛してくれる神さまだけなのです。
成功すること、人に認められること、異性からの愛されること、怒りや憎しみといった感情など、いろんなものが私たちを支配しようとしています。
何を畏れて毎日生活しているでしょうか?
神さまに愛されていると感じること以上に、自分を強く支配し、突き動かしているものはないか、我が身を省みてみる必要があります。
「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
(コリントの信徒への手紙5:15)