ユダヤの嫌われ者、徴税人
イエスはエルサレムに向かう中、その直前にあるエリコという町に立ち寄りました。
イエスはこの後エルサレムに入り、十字架にかけられることになりますが、このエリコで出会ったのがザアカイという人です。
ザアカイは税金を徴収する仕事をしており、エリコにおいて、徴税人組織のトップを務めるほどの人物でした。
今で言えば、地方の国税局長のようなポストでしょうか。
エリコというのは、北側からエルサレムに入る時に通過する、交通の要所と言える町でした。
そのため、エリコには日本でいう昔の関所みたいな機関が置かれていたため、エリコの徴税人たちは特に莫大な額の収入があったようです。
ザカアイはこのエリコの中で組織のトップに君臨していたくらいなので、当時のユダヤにおいては富裕層だったでしょう。
ただ、7節を見ると人々はザアカイのことを「罪深い男」だと言っています。
当時のユダヤはローマの支配下にありました。
ローマは支配地域の人々に税金を課しましたが、その方法としては、現地の人に「税の徴収権」を売り渡し、税の徴収を請け負わせていました。
ユダヤでも徴税人として働いた人たちは、ローマに一定額を収めるため、それ以上の金額を人々から取り立てることで利益を得ていました。
このやり方は、ユダヤの民から不当に搾取することであり、律法に反することだとされました。
そのため、ユダヤの人々からしたら、徴税人というのは憎しみの対象でした。
また、ユダヤの人々はローマ人のことを異教の神々、偶像を崇拝する汚れた民族だと見ていました。
そのため、ローマに協力して働くことは、異邦人による支配を正当化する行為であり、ユダヤの民を裏切る行為だとみなされました。
そのやり取りの中でローマ人と接触もしますし、ローマ皇帝の肖像が入った貨幣を扱うことも、宗教的に不浄なことだとされました。
そのため、徴税人たちは宗教的に汚れた者として扱われ、ユダヤ人の大切なコミュニティである会堂からも排除されていました。
このようにユダヤ人の中で最も嫌われている存在が、徴税人だったと言ってもよいでしょう。
ザアカイも莫大な収入を得ることと引き換えに、社会からは憎悪と軽蔑の目を向けられながら、徴税人として働いていたことと思います。
イエスの特別な眼差し
エリコの町にイエスがやってくると、すぐに人だかりができました。
ザアカイもイエスのことを見ようとしましたが、背が低かったため、群衆に遮られて見ることができませんでした。
それでザアカイは、イエスが進む方向に走って先回りして、木の上に登ることにしました。
イエスがザアカイのいる木のところまで来た時に、イエスはザアカイに声をかけます。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
おそらくこの時イエスは初めてザカアイと接触したと思いますが、イエスはザアカイの名前を知っておられました。
ザアカイという名前には「清い」とか「正しい」という意味があります。
ザアカイはユダヤでは汚れた者、不正を行う者であり、名前とは全くの正反対の存在でした。
罪人の家に入ることは、汚れを受ける行為であり、ユダヤの宗教指導者であるラビという立場にある人々も、徴税人たちについて「彼らの家には入ってはならない」と教えていたようです。
しかし、イエスは誰も泊まろうとしなかったザアカイの家に泊まろうとしました。
宿泊することは、ユダヤの文化では交わりと受け入れの象徴です。
イエスはザアカイのことを「清い者」として見ておられたのです。
汚れと不正の象徴だったザカアイのことをイエスだけは清い者と言われ、また、憎悪と軽蔑の中で生きていたザアカイを、イエスは憐れみと赦しによって受け入れておられたのです。
また「あなたの家に泊まりたい」という言葉は「あなたの家に泊まることにしてある」という意味の言葉です。
「泊まらなければならない」という神の必然、神の計画を表すニュアンスの言葉です。
この時イエスはエリコでの宿泊場所が必要でザアカイに声をかけたわけではありません。
エリコを通ったことも偶然ではなく、ザアカイに出会ったのもたまたまではなかったでしょう。
イエスは、エリコに来る前からザアカイの家に泊まることをすでに決めていたということです。
イエスにはザカアイの家に泊まらなければならない理由があったのです。
突然そんなことを言われたら、普通は戸惑うと思いますが、ザアカイは予想外の反応を見せました。
6節を見ると、ザアカイは木の上から急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えました。
ザアカイは戸惑うどころか、喜んだのです。
神の執念深さ
急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えたというザアカイの反応が、その時のザアカイの心をよく表しているように思います。
ザアカイには安定した仕事もあり、お金もありました。
経済的には成功者でした。
しかし、ザアカイの心には何か満たされないものがあったのだと思います。
徴税人というのは、ユダヤにおいてはとても孤独な仕事でした。
木に登るという行為も、大人の男性、しかも、富裕層の人間がすることは、社会的な威厳を捨てるようなでした。
木に登るために走って先回りしたり、また、木から降りるときも急いで降りてきたり、この時のザアカイは、ただ興味本位でイエスを見たかったわけではなかっでしょう。
何かイエスに対して求めるものがあったのだと思います。
木の上からイエスを見つめるザアカイの姿と、イエスの周りに群がる人々というのは、何かザアカイのユダヤでの立場を象徴しているようにも見えます。
ザアカイは罪人としての孤独を味わい、人々からは憎悪と軽蔑の目を向けられながら生きてくことに疲れていたのだと思います。
イエスはそのようなザアカイの心を誰よりもよく知っておられました。
だからこそ、ザカアイの心に「今日は、あなたの家に泊まることにしてある」というイエスの言葉が響いたのでしょう。
「この方は、自分のことを知っていてくれていたんだ。自分のことを気にかけて、関わってくれる人がいるんだ。」
そんな気持ちを抱いたことと思います。
イエスは木から降りてきたザアカイに対して「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と言われました。
ここで「アブラハムの子」というのは、ユダヤの民のことです。
ザアカイはユダヤの民でありながら、徴税人であることを理由に、その社会から排除されていました。
そんなザアカイを、イエスは神の約束の民として見ていました。
またイエスが言われた「失われたものを捜す」というテーマは、これまでもこの福音書の中に何度か出てきたものです。
15章の中に、見失った1匹の羊、無くした一枚の銀貨、放蕩息子のたとえ話があります。
これらの話の中で羊、銀貨、息子は、もともとの主人のもとから離れた存在として出てきます。
これは、神様と共に生きる存在として造られた人間が、神様のもとから離れてしまったことを表しています。
人間は神様のことを見失ってしまいました。
しかし、神様は失ったものを見つけるまで探し出される執念深いお方です。
イエスも神様を見失って生きていたザアカイのことを探し出し、出会い、呼びかけ、救ってくださいました。
神様のもとに戻り、信仰によって生きることこそ、神様の民、神様の子供としての人生です。



