牧師ブログ

「神の執念深さ」

【ルカによる福音書15:1-10】

1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
3そこで、イエスは次のたとえを話された。
4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

主人のもと離れてしまった存在

皆さんは何か大切なものを失くした経験はあるでしょうか?
私は結構置き忘れしてしまう方で、これまで財布を3回無くしたことがあったり、ついこの間も、帰省する途中の電車の中にリュックを置き忘れるということがありました。

紆余曲折を経て、数日後なんとか無事に手元にそのままの状態で戻ってきましたが、そのように何か大切なものを失った時、私たちはそれが見つかるまで探し求めると思います。
まさに、父なる神様も私たちのことをそのように、どこまでも追い求めて、見つかるまで探し出そうとしておられます。

このことを伝えるために、イエスが語ったのが今日のたとえ話です。
この後に有名な放蕩息子のたとえがあるのですが、今日はその前に置かれている2つのたとえを見ていきたいと思います。

一つ目のたとえは、百匹の羊を持っている人がいて、そのうちの一匹でもいなくなったとしたら、九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうかという話です。

また、二つ目は、ドラクメ銀貨を10枚持っている女性がいて、そのうちの一枚でもなくなったとしたら、その一枚を見つけ出すまで念入りに探さないだろうかという話です。

この二つのたとえ話が表していることは何でしょうか?
それは、絶対に見つけ出すんだという「執念深さ」です。
そのように神様が執念深く探し続けているのは、一人の罪人です。
7節と10節を見ると、神様は、一人の罪人を探し続けておられることがわかります。

この罪人という言葉ですが、日本語では悪人のような響きに聞こえる言葉です。
罪というのは犯罪に近い言葉なので、法を犯すにようなことを思い浮かべると思いますが、聖書で言われている罪には、それ以外にも重大な意味があります。

イエスが言う「悔い改める一人の罪人」というのは、二つのたとえ話の中で言うと何を指しているでしょうか?
1つ目の話では、飼い主の元からいなくなった羊のことであり、2つ目では、持ち主の手から失われた銀貨のことです。

この場合、羊も銀貨も、元々、主人の手元にあったもので、何かしらの理由で主人を離れて行ってしまった存在です。
羊も銀貨も、何か自分で道徳的にいけないことをしたから、罪人とされるではありません。
主人のもとを離れている状態が、罪人という言葉で表現されているのです。

つまり、悔い改める一人の罪人というのは、単なる犯罪者ということではなく、元々の主人である神様のもとを、何かしらの理由で離れてしまっている状態の人のことを指します。

神様が願っておられることは、元々の主人である神様のもとを離れてしまった人々(=罪人)が、もう一度、神様のもとに戻ってくることです。
これが、罪人が悔い改めるということです。

レッツパーティ

主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(ペトロの手紙II 3:9)

この中の「一人も滅びないで」という言葉が、特に印象的です。
神様にとっては「一人くらい別にいっか」ではありません。
羊飼いが九十九匹の羊を野原に残してまでして、見失ってしまった一匹の羊を探しにいくように、神様は最後の一人まで執念深く探し出そうとされるのです。

失くしたものが見つかるというのは、±ゼロの出来事です。
もともと自分のものだったものが、見つかっただけであれば、何かをプラスで得たわけではありません。

ただ、皆さんも経験があるかもしれませんが、一度なくなったもの、もう自分の元に戻ってくるかわからないものが、また自分の手元に戻ってきた時は何かを新しく得ような気分になると思います。
そのように、もともと神様の子供として生まれた人が神様の元に戻ってくることは、天において大きな喜びだとイエスは言います。

イエスという存在はまさに、神様の執念深さを一番よく表しているでしょう。
神様は絶対に見つけるんだという執念深さを持って探し回り、ご自分の元に罪人が戻ってくることを喜ばれるお方です。

ただ、神様にとってまた戻ってくるということは、私たちの感覚とはどこか違うようです。
イエスが語ったたとえ話の中に一つ、ちょっと理解しがたいことが書かれている。

そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。(5節)
そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。(9節)

いなくなっていた一匹の羊が見つかった時、友達や近所の人を集めて「一緒に喜んでください」と言うでしょうか?
なくした銀貨が見つかった時、友達や近所の人を集めて「一緒に喜んでください」と言うでしょうか?
個人的に喜ぶか、せいぜい家族と一緒に喜ぶくらいで、さすがに人を集めてパーティを開くほどではないでしょう。

しかし、神様にとって、いなくなっていたものが見つかることは、一人でその喜びを噛み締めるくらいでは物足りないことなのです。
私たちの感覚ではあり得ないことですが、大勢の人たちと一緒に喜びを分かち合う出来事が罪人が悔い改めるということなのです。

ただここにいるだけで

そもそも、イエスがこのような話をするに至ったのはなぜだったでしょうか?
事の始まりは、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、イエスを批判したことにあります。

その時、徴税人や罪人たちが、話を聞くためにイエス様のところにやって来て、一緒に食事をしていたようです。
それを見たファリサイ派や律法学者たちは「罪人たちを迎えて、一緒に食事までしている」とイエスのことを批判したのです。

一人の罪人が悔い改めること、一人の人が神様のもとに戻ってくることは、天における大きな喜びでしたが、ファリサイ派の人々と律法学者たちは、それを喜べなかったどころか、その集まりを批判しました。
しかし、彼らは気づかなければなりませんでした。
神に受け入れられるということが、どういうことなのかを。

天における喜びというのは、私たちが何かを成し遂げたから、何かができるようになったから生じるものではありません。
神様にとって私たちは、自分のために何かをしてくれるから大切なのではありません。
真面目に言うことを聞いて、従ってくれるから可愛がるのではないのです。

百匹の中からいなくなった一匹の羊が見つかった時、その一匹が何か特別な羊にパワーアップしたわけではないでしょう。
その羊は、ただ、見つけ出された後、もう一度、元の主人である羊飼いのもとに戻っていくだけであり、前と今とで、羊自身は何も変化はありません。

これが意味していることは、羊飼いにとっての喜びは、羊の存在そのものであるということです。
羊が羊として生きていること、自分の手元にいてくれること、それで十分なのです。
それ以上何かを求めることはありません。

同じように、天においては、私たち一人一人の存在そのものが大きな喜びです。
神様にとっては、私が私として、ただここにいることだけで十分なのです。
私たちがイエスを主と仰ぎながら、神様の子供として生きていること自体が神の御心なのです。