箱根駅伝に見る人生の歩み方
皆さんは、今年のお正月はどのように過ごされたでしょうか?
私のお正月の楽しみは、おせちではなく、箱根駅伝です。
私の実家は横浜の戸塚というところにあって、10年間ほど戸塚に住んでいました。
戸塚という地名を聞くと、箱根駅伝に少し詳しい方は「戸塚中継所」が思い浮かぶと思います。
実家のすぐ近くをランナーが走るので、実家にいた時は毎年、見に行っていました。
祖母の話によると、何十年も昔は、走り終えたランナーが家に運ばれてきて、手当を受けたり、休ませてあげたりしていたそうです。
そんなこともあって、箱根駅伝は私にとって身近な存在で、今でも好きでよく見ています。
ランナーのうち、ほとんどの選手は目標タイムというのを設定して、走っている途中に時計を見ながら、設定通りに行けているか確認しながら走ります。
そんな中で、今年優勝した青学の中に、いつも時計つけずに走る選手がいます。
それが2区を走った黒田朝日という選手です。
当然、アスリートになると自分が今どれくらいのスピードで走っているか感覚的にだいたいわかるそうですが、それでも時計をつけずに走る選手はあまりいません。
それとは対照的に、同じ2区を走った創価大学の吉田響という選手は、全体のタイム以外にも、過去に好走した選手の記録を参考にして、途中のタイムも設定して、区間新記録のタイムを記録しました。
それぞれタイプがあるので、どちらがいいというわけではないと思いますが、こういう話を聞きながら、私たちの人生にも重なるところがあるなと感じました。
人生においても、具体的な目標や計画を立てて、それを達成することを目指して歩む人もいれば、あまり目標を決めずに淡々と生きていく人もいたり、いろいろだと思います。
新しい年になると、1年の目標を立てる人もいると思います。
教会でも、今年の標語を決めて、それを礼拝堂に飾るようなところもありますが、私の場合は、あまり具体的な目標を立てないタイプです。
特に40を過ぎると、何かを追い求めて生きるよりも、1日1日を何気なく過ごせることで十分だと思ってしまいますが、皆さんの場合はどうでしょうか?
天のあらゆる霊的な祝福①
2025年、最初の礼拝で皆さんと分かち合いたいことは、私たちにすでに与えられているものについてです。
聖書は、私たちにはすでに素晴らしい祝福が与えられていると言っています。
それは、3節の後半に書かれている「天のあらゆる霊的な祝福」です。
エフェソの信徒への手紙は、パウロという人が、今のトルコにあったエフェソという地域のクリスチャンたちに送ったものです。
その中で、パウロが一番最初に伝えていることは「神様は私たちを天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださった」ということでした。
この手紙は獄中書簡といって、パウロが獄中から書き送った手紙だと言われています。
イエスのこと、福音を伝えたことで逮捕され、牢屋に入れられていましたが、普通、そんなことが起こったら自分が祝福されていると感じることは難しいと思います。
むしろ、自分は神様から見捨てられてしまったのかと思いたくなるでしょう。
しかしパウロは「神様は私たちを天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださった」と言っています。
それでは、パウロがいう祝福とはどのようなものでしょうか?
4節以降を見ると、大きく3つのことをパウロは言っています。
1つ目は、神の子とされた祝福です。
4節に「神はわたしたちを愛して…キリストにおいてお選びになった」とあります。
また、7節を見ると「わたしたちは御子において、キリストの血によって贖われ、罪を赦された」とあります。
これらは、一言で言えば「神の子とされた」ということです。
神様が私たちを愛してくださるので、私たちは神の子とされました。
神様が私たちの罪を赦してくださったので、私たちは神の子とされました。
それでは、神の子になることのどこが祝福なのでしょうか?
私が好きな賛美の中で「神の子」という賛美があります。
この賛美の歌詞は「何ができてもできなくても、何を得ても失っても、ただ愛されている天の父に、私は神の子」というものです。
この賛美は、神の子とされることの祝福をストレートに伝えていると思います。
「神の子とされる」ということは、ただ愛されているということ、何の条件もなく神様に受け入れられているということです。
何ができてもできなくても、何があってもなくても、私たちはすでに尊い存在として神様から受け入れられているのです。
天のあらゆる霊的な祝福②
神様がすでに与えてくださった2つ目の祝福は、9節にあります。
それは「神様が秘められた計画をわたしたちに知らせてくださったこと」です。
神様の秘められた計画とは何でしょうか?
10節で明らかにされています。
神様には計画があります。
神様の計画と言っても、聖書で明らかにされている計画というのは、そこまで具体的なものではありません。
誰が救われて、誰が救われないかとか、私たちの人生にどんな出来事があって、何歳まで生きるのかとか、そういうことを神様が計画しているとは聖書は言っていません。
神様の救いは、最終的にあらゆるものがキリストのもとに一つになることで完成します。
だから、私たちが神の子とされるというのは、個人的な話ではありません。
神様の子供たちが中心となって、あらゆるものがキリストのもとに一つされていくことが、神様がこの世界に対して持っている計画です。
この世界は、最終的に天と地が一つに重なり合っていく世界なのです。
簡単に言えば、神様と人間、また人間同士が、神様が造られた世界の中で共に生きていくことです。
今の世界を見れば、それとは反対の方向に向かっているように見えます。
争いと分裂によって、あらゆる関係が破壊され、共に生きられない世界になっています。
神様はそういうヒビが入った世界を良しとはされません。
歪んだ関係をなんとか修復したいと願っておられます。
私たちがお互いを尊重し合って、共に生きていくことを願っておられます。
天のあらゆる霊的な祝福③
バラバラになったものをキリストのもとに一つにするという救いの計画を成し遂げるために、神様が私たちに与えてくださったものがあります。
それが、今日の箇所で言われている3つ目の祝福です。
神様が私たちにすでに与えてくださっている祝福、それは聖霊です。
この手紙を読んでいるエフェソのクリスチャンたちのほとんどは、異邦人でした。
当時のユダヤ人からしたら、救われるにふさわしくないと思われていたのが、異邦人です。
いろんなバックグラウンドを持っている人たちが、キリストにおいて、福音を聞き、救われて、エフェソ教会を形成していました。
そういう意味で、教会というのは「キリストのもとに一つにされる」という神様の計画が進んでいることを表す、大きなしるしだと言えます。
私たちの教会も、国籍が違う、性別や年齢や価値観も違う、いろいろな人が集まっています。
互いに異なるものが集まって、こうやって礼拝していること自体が、聖霊によるものであり、神様の計画の現れでしょう。
14節に「聖霊は私たちが御国を受け継ぐための保証」だとあります。
保証というのは、手付金であり、頭金のようなものです。
やがて全体を受け取ること保証として、今、その一部を私たちはすでに受け取っています。
それが、聖霊なのです。
霊的な祝福は、神様だけが与えられるものです。
これは、誰にも奪われることのないものです。
人間が与えられるものは、いつかまた人間によって奪われたり、なくなったりすることもあるでしょう。
しかし、霊的な祝福はそうではありません。
パウロは人々の手によって牢屋に入れられ、福音を伝える自由を奪われました。
しかし、人々はパウロから天の霊的な祝福までも奪うことはできませんでした。
多くの日本人はお正月になると、福を求めてお寺や神社に出かけます。
しかし、私たちはすでに神様から与えられた霊的な祝福で満たされているのです。
だからと言って、求めることはやめましょうということでは当然ありません。
目標を持って生きていいですし、神様に対して何を求めるのも個人の自由です。
ただ、私たちには神様からすでに与えられているものがあります。
何かが新しく与えられることも祝福であり、すでに与えられていることがあることを知っていることもまた、祝福です。
これから始まる2025年はすでに、神様の祝福で満ち溢れているのです。