牧師ブログ

「教会は違いを乗り越えられるのか?」

【ヤコブの手紙2:1-10】
1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、
4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
6だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。
7また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。
8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
10律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、すべての点について有罪となるからです。

人を分け隔てしてはならない

この箇所の中心的なメッセージは、1節の最後に書かれています。
それが「人を分け隔てしてはならない」ということです。

この手紙を書いたのはヤコブという人で、キリストの兄弟のヤコブだと言われています。
ヤコブが同胞のユダヤ人のクリスチャンに向けて書いた手紙だと考えられていて、手紙には実践的な教えが多く含まれています。
今日分かち合う箇所でヤコブが伝えていることは「人を分け隔てしてはならない、差別してはならない」ということです。

今の私たちにとっては、このメッセージは聞き馴染みがあるというか、今の感覚だったら「差別してはならない」というのは、当たり前に感じることだと思います。
別に教会だけではなくて、他の宗教も差別は良くないと考えているでしょうし、宗教に関係なく「差別してはならない」というメッセージは、多くの人が理解していることです。
私たちにとっては当たり前に聞こえるかもしれませんが、2000年前はそうではありませんでした。

ヤコブはこの手紙をクリスチャンに向けて書いていますが、人を分け隔てをしてはならないと伝えているということは、当時の教会の中で差別があったということです。
特に、教会の中で差別を行なっていたのは、ユダヤ人クリスチャンたちだったと考えられます。

この場面で、ヤコブは倫理的な理由から「差別はよくない」と言っているわけでありません。
当時の価値観の中で、人権に対する意識をもって、倫理的な感覚をもって、そう言っていたとしたら、それはそれでとてもすごいことですが、ヤコブが語っている言葉をよく聞いてみると、ヤコブはこの言葉を信仰に関連づけて語っています。

1節を見ると「私たちの主イエスキリストを信じながら」という前置きがあります。
つまり、ヤコブは「キリストを信じていながら、人を分け隔てすることはどういうことか」と訴えているのです。
キリストを信じることと、差別をすることは相反すること、矛盾することだということです。

なぜ差別はよくない?

「なぜ差別は良くないのか?」と聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか?
神様や信仰と関係なく答えるとしたら、例えば「人を傷つけることだから良くない」とか「人格を否定することだから」とか、そのように答えることができると思います。

それでは、キリストを信じているのに、差別することはなぜ良くないと言えるのでしょうか?
キリストを信じるというのは、ただ単に、自分と神様との関係だけの話ではありません。
キリストを信じるということは、私がキリストの体の一部になることです。
それで、キリストを信じる人々は、キリストの体として、一つになるのです。

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
(コリントの信徒への手紙12:12-13)

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
(コリントの信徒への手紙12:27)

パウロは、キリストを信じることは、皆が一つの体になることであり、一つの霊を飲むことだと言っています。
私たちの体は多くの部分から成り立っていますが、そこに上下関係はありません。
なぜなら、すべての部分が必要だから、体として存在しているからです。

そこにあるのは、役割の違いであって、どこが上とか下とかそういう関係性ではないのです。

教会でも起こっていた差別

しかし、2000年前の初期の教会には、身分の違いによって、上下関係や優劣ができていました。
ヤコブがその例として挙げているのは、裕福さ、豊かさの違いによる差別です。

2節〜4節を見ると、教会の集まりに、立派な身なりの人と、汚らわしい服装の人が入ってきた時に、その見た目や裕福度の違いによって、扱いを変えることがあったようです。
裕福な人には、特別な席を案内して、貧しい人には、席に座らせることなく、立っているか床に座っているように言っていました。
今の時代、教会に限らず、学校でも会社でも、こんなことをしたら大問題になりますが、でもこれは、遠い昔の話ではありません。

150年くらい前のことだが、アメリカの教会の中には、有料の特別席を設けていたところがあったそうです。
裕福な人々が、前の方の席を、お金を出して買い占めるわけです。
裕福な人たちはいつも前の方のいい席に座ることができますが、貧しい人々はそういうことにはお金は出せないので、後ろの方か、立っている人もいたことでしょう。

それでは、今の時代、教会は差別と関わりないところになったのでしょうか?
そうであってほしいですが、残念ながら人間が集まるところには、教会でもあったとしても、やはり問題が起こってしまいます。

しかも、牧師が率先してそういう問題を起こしてしまうこともあります。
例えば、牧師の中には、信徒の方の献金で生活している人が多いわけですが、そうすると、お金持ちの人が教会に来ると、目がキラキラします。
この人はたくさん献金してくれるんじゃないか、と。

お金以外にも、学歴や能力、社会的身分によって、扱いを変えたり、単純に接しやすさで、態度を変えたりすることもあるかもしれません。
どうしても、私たちは自分の益になるかという思いが、いつも心のどこかにあるのです。

違いを乗り越えていくために

しかし、キリストを信じることは、同じ霊を飲むことであり、一つの体になることです。
ここで勘違いしてはならないことは、一つの体になることは、違いがなくなることではないということです。

一つの体になるというのは、みんなが同じになることではありません。
ここにも国籍や性別、性格を含め、いろんな方がいますが、違いは無くなりません。
裕福度も学歴も能力も、みんな違います。
ただ、ここで大切なことは違いによって上下関係を生み出すのではなくて、そこに役割の違いがあることを知ることです。

違いがあるということは、できることが違うということでもあります。
一人一人に自分なりにできることがあり、できないことがあります。

誰かのできない部分を見ながら、私たちはどうしても「なぜあの人は…」という思いを持ってしまうことがあります。
これは教会に限らず、家庭でも、職場でもそうです。
心の中に不平不満を抱いてしまうことは、人間だから、ある程度は仕方ないことだと思います。
私たちはどんな場所であっても、人と関わる以上は、お互いに配慮する心は必要です。

ただ、今日の聖書箇所で、ヤコブが強調していることは、その人も神様から選ばれ、神様から愛されている人であることを認めることです。

わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。(5節)

神様は貧しい人たちをあえて選ばれました。
あえてというのは、そこに何か理由があるということです。
神様の中には、私たちがここにいる理由がそれぞれあるのです。

神様はこんな私を選び、愛してくださっているように、私たちが日々出会う人々を愛してくださっています。