地元ナザレ凱旋
皆さんにとって、故郷や実家というのはどういうところでしょうか?
私の実家は横浜にありますが、60〜70年以上前に建てられた家なので、かなり古びた家です。
これまで住んだどの家よりも古く、綺麗な家ではありませんが、それでもなんか実家はいいです。
もちろん、人によって違うとは思いますが、私にとって実家というのは、安全な場所であり、落ち着く場所です。
先ほど読んだ聖書の箇所は、キリストが故郷に帰った時のことを記しています。
キリストはそれまでいたところを離れて、弟子たちを連れて、故郷を訪れました。
キリストの故郷は、ナザレというところで、今のイスラエルにおいては、北部の中心都市だそうですが、2000年前は、ナザレはとても小さな村でした。
キリストが生まれたのはベツレヘムというまた違う街でしたが、小さな頃からメシアとしての働きを始めるまで、30年くらいを過ごしたのがナザレです。
先ほど、実家は私にとって安全な場所だと話しましたが、メシアとして働き始めた後のキリストにとっては、そうではありませんでした。
キリストがナザレを訪れたことが、今日の場面の少し前、マルコによる福音書の3章に書かれています。
キリストがメシアとして働き始めた後、イエスをメシアだと信じる人々が大勢現れました。
それで、連日、キリストの周りには多くの人々が集まるようになりました。
ただ、その一方で、キリストのことを頭がおかしくなっていると考える人々もいました。
3章を見ると、キリストが故郷に帰った時、ナザレの多くの人々はイエス君は悪霊に取り憑かれてしまったと考えていました。
キリストの家族でさえも「うちの息子がおかしくなってしまった」と思って、ナザレに帰ってきた息子を取り押さえに来るほどでした。
地元では評判の上がらないイエス君
その時以来、キリストがまた故郷にやってきたのが、今日分かち合う6章の場面です。
ナザレにやって来たキリストは、安息日になると、会堂で教え始めました。
ナザレの人々は、その教えを聞いて、驚きました。
「あのマリアの息子であるイエス君が、どこからそんな知恵を得たのか、なぜあのような奇跡を行うことができるのか」と。
ナザレは小さい村だったので、人々はキリストのことをよく知っていたようです。
田舎であればあるほど、お隣さんとの距離が近く、地域のつながりが強いでしょう。
ナザレの人々が、キリストについて「大工であり、マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟だ」と言っているように、家族構成も全部知っています。
おそらく、小さい時からキリスト一家とつながりがあって、近所の人たちは小さい時からイエス君のことをずっと見てきたでしょう。
どんな性格なのか、趣味が何なのか、イエス君の好きな食べ物、嫌いな食べ物は何なのか、そういうことも知っていたかもしれません。
ナザレの人々は、イエス君が話す言葉を聞いて、その知恵や奇跡に驚いたが、それはいい意味での驚きではありませんでした。
3節の終わりを見ると「このように、人々はイエスにつまずいた」とあります。
「つまずいた」というのは、イエス君がメシアだという話を受け入れられなかったということでしょう。
イエス君の知恵と奇跡に驚きながらも、ナザレの人々は「まさかあのイエス君がメシアであるなんて…」と受け入れることはできませんでした。
5節を見ると、キリストは地元のナザレでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことができませんでした。
これはおそらく、癒しを求めて、キリストのところに来る人々がほとんどいなかったということだと思います。
それほどまでに、地元ナザレでは、キリストは人気がありませんでした。
キリストも、ナザレの人々の不信仰に驚くほどだったのです。
知識 ≠ 信仰
このナザレでの出来事は何を意味しているのでしょうか?
4節にある「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」というキリストの言葉に注目してみたいと思います。
自分の故郷、親戚、家族というのは、自分のことをもっとよく知っている存在です。
特に家族は小さい時からずっと一緒に過ごしながら、パートナーや友人が知らない姿があるでしょう。
自分のことをもっとよく知っている人の方が、自分のことについてもっと受け入れにくいことがあります。
ナザレでは、ほとんどの人が、イエス君は頭がおかしくなっちゃったんだとか、悪霊に取り憑かれていると考えましたが、それは、イエス君のことをよく知っていたほどそうだったと思います。
むしろ、ナザレ以外のところの方が、キリストに癒しを求めて、多くの人々が集まり、キリストをメシアとして受け入れる人々が多かったでしょう。
つまり、キリストを信じるということにおいて、キリストのことをどれだけ知っているのかということが、決定的に重要なことではありません。
もちろん、聖書はキリストについて、神様のことについて明らかにしていますので、聖書を通して、神様を知ることはとても重要なことです。
神様は人格的な存在なので、私たちが盲目的に、ただ信じますということを願っているわけではありません。
それを踏まえた上で、どれだけ聖書のこと、キリストのことを細かく知っているかということと、信仰とはイコールとは言えないということも確かなことでしょう。
聖書学者と呼ばれる人々がいますが、聖書学者がみんなクリスチャンかというとそういうわけでもありません。
学者たちは、自分の研究分野においては、牧師よりももっと詳しい知識があると思いますが、単に、多くのことを知ることが、信仰を成長させるわけではありません。
そもそも、人間が知れる範囲というのは限られています。
それでは、信仰において大切なことは何でしょうか?
それは、神様に問いかけていくことです。
わからないこと、理解できないこと、受け止めきれないことを神様に問いかけていくのです。
そうしていく中で、現実が導かれていき、自分自身とそこで起こっていることを受け止めることができるようになっていくのだと思います。
神様が願っているのは、私たちがただ信じますと吹っ切れることでなく、神様に問いかけながら、神様が導かれる道を共に歩んでいくことではないでしょうか。