再臨あれこれ
この本文は、キリストの再臨についてキリスト自身が語っているところですが、再臨は十字架や復活という過去の出来事とは異なり、将来起こることなので、いまいちピンと来ないという人も多いかもしれません。
しかし、聖書は確かにキリストは再びこの地に来られると、キリストの再臨を約束していて、その日の備えておくようにと言っています。
多くの教会でも礼拝で告白される信仰文に使徒信条というものがあります。
そこには「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを裁きたまわん」という一文がありますが、これはキリストが裁き主として再臨することを告白しています。
教会はこの2000年間、天におられるキリストが来る時を信じ、待ち望んできたわけで、キリストの再臨を信じる信仰は、キリスト教会の初期から存在していました。
たとえば、パウロが書いた手紙を見ると、パウロは自分が生きている間にキリストの再臨があると考えていたことがわかります。
また、ペトロというイエス様の弟子が書いた手紙の中には、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」という当時のユダヤ人たちの言葉が書かれています。
これは、キリストの再臨に対する期待を持っていた人々がいたことを伺わせる一文です。
このように、再臨というのは教会が始まった初期の頃から信じられていたことであり、さらにそこから2000年という長い年月が経ちました。
以上のことから、再臨について確かに言えることは、以下の三つです。
①キリストは再臨することを約束している
②キリストはまだ再臨していない
③キリストがいつ再臨するのかは誰にもわからない
予測不可能な再臨
今日の本文においても、キリストは自身の言葉で、再臨は思いがけない時に来ると明らかにしています。
本文の40節を見ると「人の子は思いがけない時に来るからである」と書かれています。
人の子というのはキリストのことで、キリストが思いがけない時に来るというのは、キリストの再臨は予測不可能だということを意味します。
本文の中で、再臨がいつ起こるのかわからないということについて、キリストは二つのことにたとえています。
一つは「婚宴から帰ってくる主人」です。
当時の習慣によると、ユダヤの婚宴は一週間ほど続いたようで、いつ主人が婚宴を終えて、家に帰ってくるのかわかりませんでした。
真夜中に帰ってくるかもしれないし、明け方かもしれない。
主人の家にいる僕は、いつ帰宅するかわからない主人を待たなければなりませんでした。
また、もう一つのたとえは、家に押し入る泥棒です。
泥棒というのは、当然、いつ来るかわかりません。
だからみんな、予測不可能な事態に備えて、家の扉を閉め、鍵をかけておくのです。
このように、キリストの再臨は誰にも予測ができないことです。
そうだとしたら、私たちがキリストの再臨を信じることには、どんな意味があるのでしょうか?
今、この瞬間を大切に
日本は地震や台風などの自然災害が多い国ですが、いつ起こるかわからない自然災害に対して、私たちが取るべき態度とはどういうものでしょうか?
それは、いつ来てもいいように、常に備えておくことです。
いつ起こるかわからない事柄に対しては、いつかのその時ではなく、今この時どうするかが問われているからです。
つまり、私たちが考えるべきことは、将来から逆算した今、この瞬間だということです。
本文の36節には「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」とあります。
これは、将来どうのこうのではなく、今、どうしておくべきかという「現在」に関する勧めです。
40節にある「あなたがたも用意していなさい」というのも、同じことで、いつ来ても、いつ起こってもいいように、その日に備えて、今、用意しておきなさいということです。
私たちがキリストの再臨を信じて待ち望むということは、言い換えれば「今をどう生きるのか」という問題です。
使徒信条では「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを裁きたまわん」とあるように、キリストが再臨する時は、裁きの時です。
天国と地獄という二つに分けられて、その時、天の国は完全に私たちのものとなります。
だからと言って、再臨は、将来の天国のことだけに焦点を合わせるものではありません。
キリストが再臨すれば天国に行けるんだから、別に今この世の中のことなんてどうでもいいということではありません。
再臨がいつ来てもいいように、今、この時を大切に生きることが、再臨を待ち望む信仰なのです。