一人暗闇に置かれる瞬間
復活したキリストに初めに出会った人物は誰だったでしょうか?
ヨハネによる福音書によると、それはマリアという女性でした。
マリアはキリストが十字架で殺された時も、キリストが墓に埋葬される時も、ずっとキリストの側に寄り添ってきたキリストの弟子の一人です。
マリアはキリストが墓に葬られた後、安息日が明けた日曜日の朝、遺体に防腐処置を施すために、キリストの墓を訪れました。
しかし、マリアが墓の中を覗くと、そこにあるはずの遺体は姿を消していました。
マリアは何者かによって遺体が奪われてしまったと思い、墓の外で泣き出しました。
この時にマリアが流した涙には、あらゆる感情が複雑に入り混じっていたのだと思います。
たとえ遺体であったとしても、もう一度会えると思っていたイエス様を失ってしまった悲しみ。
十字架にかけられたイエス様をただ呆然と眺めることしかできなかったもどかしさや無力さ。
これからどうしていけばいいのかという将来への不安や心配など…。
この時のマリアのように、何か思いがけない出来事が起こった時、自分の期待が裏切られた時、涙が止まらなくなる瞬間があります。
そういうふうに、人生には、突如として暗闇に放り出されたように感じる瞬間があります。
キリストはどこで何をしているのか?
それでは、マリアが暗闇の真っ只中にいた時、キリストはどうしていたのでしょうか?
実は、キリストは泣いているマリアのすぐそばにいました。
マリアがふと後ろを振り返ってみると、そこにある一人の人が立っていました。
マリアはお墓を管理する園丁だと思いましたが、その人は復活したキリストでした。
この時のマリアのように、私たちも暗闇の中にポツンと一人置かれている時、そばにキリストがいることが分からなくなることがあります。
「神様がいるとしたら、なんでこんなことが起こるのか?」
「一体、神様は今どこで何をしているのか?」
目の前の現実を見れば、神様の不在と沈黙に憤るしかないのです。
ただ、御言葉が明らかにしていることは、たとえ私たちがキリストの存在を感じることができなかったとしても、キリストは私たちのすぐそばに立っておられるということです。
私たちの目には見えなかったとしても、心で感じられなかったとしても、キリストが私たちから離れ去ることはありません。
自分の思い通りに物事が運ばない時、それは、神の不在を意味するのではありません。
そうであるなら、また、キリストと共にそこからゆっくりと歩み始めればよいのです。
キリストの語る声
それでは、マリアがそばにいるキリストに気づいたのはいつだったのでしょうか?
キリストは泣いているマリアに向かって「なぜ泣いているのか、誰を捜しているのか」と声をかけました。
マリアは、それがキリストだとは知らずに「あなたがキリストの遺体を運び去ったのなら、わたしが引き取るから返してほしい」と願い出ました。
それを聞いたキリストは、マリアに向かって「マリア」と呼びかけました。
そうするとマリアは振り向いて「ラボニ」と返しました。
ラボニというのは、いつもマリアがキリストを呼ぶ時に使っていた呼び名です。
マリアは復活したキリストの姿に気づいたのは、「マリア」と呼びかけるキリストの声を聞いた時でした。
このように、キリストは「語られる言葉」を通して、私たちにご自身のことを明らかにしています。
キリストは私たち一人一人の名前を呼んでおられます。
聖書を通して、私たちに語りかけています。
その声に耳を傾けて聞いてみる時に、マリアのように復活のキリストに出会うことができるのかもしれません。