ヨハネの弟子からイエスの弟子へ
この箇所は、イエスが洗礼を受けた次の日に起こった出来事を伝えています。
この話の中に、洗礼者ヨハネとヨハネの二人の弟子が出てきます。
洗礼者ヨハネは、当時のユダヤ教の中で、新しい運動を起こし、ユダヤ社会に大きな影響力を与えていました。
ヨハネはもうすぐこの世の悪を裁き、ユダヤに正義を実現するために、神様がメシアを送ってくださるという信仰をもとに、人々に「悔い改めよ。神の国は近づいた」と叫んでました。
このヨハネの叫びを聞いて、ユダヤ中から集まってきた多くの人々に対して、ヨハネは洗礼を授けていました。
もともと洗礼というのは、主に他の宗教からユダヤ教に改宗する人に対して行われていたものでしたが、ヨハネはこの洗礼を、自分自分の罪を告白し、悔い改める者に対して授けていたました。
いわゆる「悔い改めの洗礼」です。
このようにして、ユダヤ教の中に新しい風を吹かせていたのが、洗礼者ヨハネでした。
そんなヨハネを見ながら、ヨハネに弟子入りを志願する人たちが現れました。
35節の中に、ヨハネの二人の弟子が出てきますが、おそらくそれ以外にも、ヨハネには弟子と呼ばれる人がそれなりにいたのでしょう。
ヨハネに弟子入りした人々の期待は何だったでしょうか?
それは、単にヨハネを人生のモデルとするということだけではなく、弟子たちにはユダヤ社会に対する願いや期待があったと思います。
当時、多くのユダヤ人たちは、ローマ帝国に支配されている自国を見ながら、メシアがユダヤを救ってくれるという期待を抱いていました。
おそらく、ヨハネから洗礼を受けた人々の多くは、ユダヤ社会の変革を期待していたのだと思います。
ある時、ヨハネが二人の弟子と一緒にいる時、目の前に歩いているイエスが現れました。
そこでヨハネは、イエスについて「見よ、神の小羊だ」と言いました。
実は、この前の日にも、ヨハネは洗礼を受けに自分のところに来たイエスを見ながら「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っていました。
つまり、ヨハネは、イエスというお方こそ、神の小羊として、ユダヤを救うために現れたメシアだと信じていたということです。
ヨハネの言葉を聞いて、それまでヨハネに従っていた二人の弟子は、イエスに従って行きました。
二人は後ろ髪引かれるような感じもなく、その場で師匠を鞍替えし、イエスに従い始めたのです。
それは、この方こそユダヤを救ってくれるメシアだと信じたからでしょう。
どこに泊まっておられるのですか?
そういう期待をメシアであるイエスにかけて、従い始めた二人の弟子に対して、イエスが問われたことがあります。
38節を見ると「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。」とあります。
イエスは自分に従い始めた二人に対して「何を求めているのか」と言われました。
この「何を求めているのか」という言葉は、ヨハネが記した福音書の中に出てくるイエスの第一声です。
二人の弟子は「何を求めているのか」というイエスに問いかけに対して、反対にイエスに対して「どこに泊まっているのですか?」と問いかけ直しました。
そうすると、イエスは「来なさい。そうすればわかる」と言われ、二人はそのままイエスについて行って、その日はイエスと共に泊まりました。
ここまでが、その日に起こった出来事として記されていることですが、この時の弟子たちとイエスのやり取りを見ると、少し不思議な感じがします。
イエスは「何を求めているのか」と問いかけた時、二人の弟子はイエスが泊まっている場所を尋ねました。
それに対してイエスは、二人を泊まっている場所に案内し、その日は一緒に泊まりました。
二人の弟子は、本当にただイエスが宿泊する場所について知りたかっただけなのでしょうか?
また、イエスはなぜ弟子たちを自分が泊まっているところに連れて行って、一緒に宿泊したのでしょうか?
この一連の出来事が何を意味しているのかを知るためには、その後の出来事に注目してみる必要があります。
40節をみると、この時、イエスについていった二人の弟子のうちの一人は、後にイエスの一番弟子とも言われるペトロの兄弟アンデレだったことがわかります。
アンデレは、イエスと一緒に泊まった後、兄弟であるペトロのところに行って「私はメシアに出会った」と言い、ペトロをイエスのところに連れて行きました。
つまり、アンデレはイエスと一緒に泊まったことを通して、イエスという方がメシアであることをはっきりと知ったということです。
注目すべき点は、この出来事の中に、イエスが自分の言葉で私がメシアだと言ったり、何かを教えたりする言葉が一切書かれていないという点です。
弟子たちがイエスと一緒に宿泊した時に、おそらく一緒に食事をしたり話したりしたと思いますが、そういう具体的なことは何も書かれていません。
この福音書を書いたヨハネが記したことは、イエスが二人の弟子を自分の宿泊場所に連れて行って、そこで一緒に泊まったということだけです。
つまり、この「泊まる」というところに、ヨハネが伝えようとしたメッセージが隠されていると考えることができます。
イエスにつながっていること
ここに出てくる「泊まる」という言葉は、ヨハネが、福音書の中で何度も使っている重要な単語です。
この言葉には、他に「留まる」とか「つながる」という意味があります。
ヨハネが伝えたかったことは、二人の弟子が、単にイエスがどこに泊まっているのか、その宿泊場所を知ったということではなかったでしょう。
イエスがどこに泊まっているかを見たということは、イエスがどこに留まっているのかを見た、何につながっているのかを知ったということです。
二人がイエスと一緒に泊まって気づいたことは何だったでしょうか?
それは、イエスが父なる神様の中に留まっているということです。
父なる神様とつながっているイエスの姿を二人は見たのです。
つまり、二人の弟子は、イエスが父なる神様の中に留まっている姿を見て、イエスが父なる神様に遣わされてこの世に来たメシアであることを知ったということです。
それは何も、その日のことだけではありません。
その後、イエスの弟子となった人々はイエスについていき、約三年半もの間、イエスと一緒に生活しました。
その中で弟子たちは、いつも父なる神様とつながり、神様との愛の交わりの中にあるイエスを見たでしょう。
イエスの弟子たちは、ユダヤ社会の変革を願い、はじめはイエスに従い始めたと思います。
イエスがメシアとして、悪を滅ぼして、ユダヤに正義を実現してくれるのではないか、と。
もう一度、ユダヤがダビデの時代のような繁栄した国になるのではないか、と。
しかし、そういう弟子たちの期待は裏切られてしまいました。
イエスは最後、逮捕され、裁判にかけられ、十字架で殺されてしまったのです。
その時、ほとんどの弟子たちはイエスの元から離れて行きました。
こういうことから、イエスについていくこと、イエスに従うということがどういうことであるのかを最後に考えてみたいと思います。
従うという言葉は、その人の言うことを聞く、言う通りにするというような意味がありますが、クリスチャンとして、イエスに従うということの本質はそこにあるのではありません。
私たちがイエスについていくということは、今日の聖書の言葉を使えば、イエスと一緒に泊まることです。
つまり、イエスにつながり、イエスの中に留まっていることです。
この福音書の15章に、泊まるという言葉が、つながるという意味で使われているところがあります。
イエスについていく時、私たちに求められていることは、ただイエスにつながっていることです。
一コリント1章には、神の子とはイエスキリストとの交わりの中に招き入れらた者だと、書かれています。
そのように、私たちがイエスにつながっていることが、神の御心であり、神の子供としての信仰です。



