牧師ブログ

「命のパン」

【ヨハネによる福音書6:25-35】

25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

収穫感謝祭

今日の礼拝は、収穫感謝(Thanks giving)の礼拝として捧げています。
収穫感謝という祭りは、アメリカとカナダなどの国でお祝いされていますが、その日は国民の祝日となり、クリスマスのように家族や友達同士で集まってお祝いされるイベントです。

アメリカでは毎年11月の第4木曜日がThanks giving dayですが、実は、今日11月23日はこの日本も感謝祭(勤労感謝)の日です。

日本の場合は、神道の新嘗祭という神事にルーツがあるそうですが、収穫感謝祭の起源は、17世紀のヨーロッパに遡ります。

17世紀のイギリスには、ピューリタンと言われるクリスチャンたちがいました。
イギリスでは、16世紀にカトリックから離れる形で国教会と言われる国家的な教会組織が誕生していました。
この国教会の体制について改革を求めたのが、清教徒(ピューリタン)と言われる人々です。

彼らは国と対立する中で、宗教上の迫害を受けるようになっていきました。
それで、信仰の自由を求めて、102名の清教徒たちはメイフラワー号に乗り、アメリカ大陸を目指したのです。

約2ヶ月かけて、アメリカの北部にある今のマサチューセッツ州に到着しました。
しかし、すぐに冬が来たので、寒さや飢えによって、半分くらいの人々が死んでしまったようです。

その後、生き残った人々は、原住民の助けによって、農業を始めるようになりました。
秋になると、作物が実り、その年は特に多くの収穫を得ることができたそうです。

ピューリタンたちはもともと秋の収穫をお祝いする伝統を持っていましたが、その年は助けてくれた現地の人々を招待して、多くの収穫を与えてくださった神様に感謝する集まりを持ちました。
原住民たちにも、もともと秋の収穫を祝う伝統があり、彼らの集まりが収穫感謝祭の始まりだと言われています。

収穫を祝う祭りというのは、古く昔から多くの文化で行われていたことです。
日本でも、先ほど話した新嘗祭という神事があるが、これはその年の収穫をお祝いするために、天皇が新米を神の前に備えて、豊穣と国家の安泰を祈願する祭りです。

毎年11月23日、まさに今日宮中で新嘗祭が行われると思いますが、現代では、農作物の恵みだけではなく、働くことへの感謝を伝え合う日として、勤労感謝の日として定められたそうです。

聖書を見ると、やはりイスラエルでも毎年、収穫を祝うお祭りが行われていたことがわかります。
春には、大麦を収穫する祭りがあり、その50日後には、今度は小麦の収穫を祝う祭りがありました。
さらには、秋には、仮庵祭という収穫祭も行われました。

このように、イスラエルの民は毎年、しかも1年に何回も収穫祭をお祝いしていました。
それは、主なる神様が自然を通して収穫を与えてくださったことを覚え、感謝するためでした。

わたしが命のパンである

イスラエルの民が「何かを得る」ということについて、多くのことを学んだ出来事がありました。
モーセの時代、荒野を旅する間、神様がイスラエルの民に与えられたマナという食べ物がありました。

エジプトを脱出した後、イスラエルの民は、当時はカナンと呼ばれていた今のイスラエルがある地域を目指して進みました。
この時、イスラエルの民は長い間、砂漠地帯を通っていかなければならず、そこは水や食料はほとんどない過酷な環境でした。

そうすると、イスラエルの民はリーダーのモーセに対して不満を言い始めました。
「エジプトにいる時はお肉やパンもお腹いっぱいに食べられたのに、今じゃまともに食べることも飲むこともできない。自分たちをこんなところに連れ出して、私たちを飢え死にさせる気か! エジプトに戻らせてくれ!」

このように民は嘆いたのです。
それを見た神様は「私はあなたたちのために、天からパンを降らせる。あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。」とモーセに言われました。
神様は人々のために必要な食べ物を与えるという約束をしてくださいました。

それで、イスラエルの民が毎朝食べていたのが、神様から与えられたマナ(マンナ)と呼ばれるパンでした。
イスラエルの民は、結局、荒野を40年間右往左往しながら旅することになりますが、その間、神様が与えてくださったパンを毎日食べながら、最終的に目的地であるカナンへと辿り着くことができました。

イスラエルの民にとって、神様から与えられたマナは生きていく上で欠かせないものであり、天からのパン、命のパンでした。

この命のパンについて、今日の場面でイエスは「私が命のパンである」と言っています。
本文の35節を見ると、イエスは「わたしが命のパンである」と言っている。

イエスは人々とやり取りする中で、人々が「かつて、イスラエルの民が荒れ野を旅する間、神様が天からマンナを与えてくださったように、イエスが神様から遣わされた方であることを示すしるしを与えてほしい」と言われました。
「本当にあなたが神から遣わされたのであれば、私たちのために何をしてくれるのか」ということです。

それに対してイエスは、35節で「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と言われました。

イエスの時代、2000年前のユダヤでは、パンが主食として食べられていました。
パンと言っても、私たちが普段食べるようなものとはだいぶ異なり、当時の人々の生活は貧しく、庶民は大麦で作った安いパンを食べて、飢えをしのいでいました。
また、水についてもユダヤ地方は乾燥地帯なので、水を確保するのも簡単なことではありませんでした。

そのため、当時、ユダヤで暮らしていた人々にとって、飢えや渇きといった問題は、命に関わるとても身近な問題だったのです。
貧しい生活を送る中で、庶民の関心はパン、つまり、食べることに向けられていました。

今の世界でも、貧しい地域に暮らす方々は、食べられることは当たり前のことではありません。
今日1日を生きるために、どのように食べ物を確保するか、何を食べるかということが生活の中心になります。

そのように、パンがとても大切に思われていた当時のユダヤにおいて、イエスは自らのことを「命のパン」だと言われました。

生きているということ

このパンについて、33節でイエスは「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と言っています。
神様が天から与えてくださるパンは、単に人に命を与えるのではなく、世に命を与えるパンです。

モーセの時代、神様が天から与えたパンというのも、単に、イスラエルの人々の肉体的な必要を満たすためだけではありませんでした。
このことについて、神様はモーセにこう言っている。

「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」(出エジプト記16:12)

この神様の言葉は、神様はイスラエルの人々が食べて満腹になるためだけにパンを与えたのではないことを示しています。
今の後半のところに「あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」とあります。
神様がパンを与えられたのは、肉体的な必要を満たすと同時に、人々が神様こそ私たちの神、主であることを知るようになるためだったのです。

この神様の言葉が意味しているのは「人間にとって、ただご飯を食べて、必要な栄養を取って肉体を維持していることが、生きているということではない」ということです。

普通、生きているというのは、命がある状態、医学的に言えば、心臓や脳が働いていて、体が活動している状態を言います。
ただ、神様はイスラエルの民が生きていく上で、ただ食べ物だけ与えておけばそれで十分だとは考えませんでした。

人間が生きていくためには、確かに、食べ物や水は欠かすことはできません。
日本に住んでいる私たちからすれば、あまり実感は湧かないが、最近の国連の報告によると、世界の10 人に1人が極度の栄養不足のため、飢餓状態にあるそうです。

私たちにとって、食べ物だけではなく、住む家や生活を支える物質的なものはとても重要ですが、物質的には不自由なく暮らしていても、生きることに疲れてしまったり、命を喜べなかったりするのが、人間の現実であることもまた確かだと思います。

それなりに豊かだと言われる日本でも、孤独だったり精神的な問題で命を落とす人々もいます。
そういうニュースを聞く度に、人が本当の意味で生きるということが何であるかを考えさせられます。

私自身のこれまでの経験を踏まえて考えてみても、やはり神様が造られた私たちの命には、毎日食べたり、飲んだりしながら、生命を維持する以上の意味があるのでしょう。

イエスは「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。
神であるイエスにしか与えることのできない命がそこにあるのです。