いつものようにオリーブ山に向かうイエス
今週1週間は、教会のカレンダーでは受難週と呼ばれる期間です。
受難週の初めの日、イエスはエルサレムに入られました。
そして、木曜日に弟子たちと最後の食事を分かち合い、次の金曜日に十字架にかけられて死なれました。
今日分かち合う聖書の言葉は、受難週の木曜日に起こった出来事で、イエスが逮捕される直前の話です。
その日、イエスは弟子たちとの最後の食事を終えてから、オリーブ山にあるゲツセマネというところに行かれました。
そして、そこで父なる神様に祈りを捧げました。
39節を見ると「いつものようにオリーブ山に行かれると」とあるように、イエスはよくオリーブ山に行き、祈っていたようです。
ただ、いつものように祈っていたイエスの姿は、いつもとは違いました。
イエスは苦しみもだながら、祈っていたのです。
血が地面に落ちるように、多くの汗を流しながら、イエスは祈っていました。
福音書を見ても、イエスのそういう姿は見たことがありません。
福音書に出てくるイエスを見ると、そこにあるのは、いつも強く、勇ましい姿です。
サタンに誘惑されても、それに打ち勝つイエスの姿。
悪霊に取り憑かれた人から、悪霊を追い出す力強いイエスの姿。
人々に罪の赦しを宣言するイエスの姿。
人々を教え、導くイエスの姿。
ファリサイ派と議論した時も、彼らを黙らせてしまう知恵に溢れたイエスの姿。
そこにはいつも、頼もしいイエスがおられました。
悪霊にも、人にも屈しない、勝利の主であるイエスがおられました。
苦しみもだえるイエス
しかし、十字架にかかる前夜、父なる神様に祈るイエスは、これまでのイエスではありませんでした。
祈りながら、苦しみ悶えていました。
苦しみ悶えていたというのは、恐れがあったということでしょう。
イエスは何かに怯えていたのです。
イエスは死ぬことが怖かったのでしょうか?
でも、イエスは十字架にかかる前日になって、初めて、ご自分の死を意識したわけではありません。
福音書の中には、イエスが3回、弟子たちにご自分が苦しみを受けて、殺されることを告げている場面があります。
イエスはご自分が死ぬことをはっきりと意識しておられました。
また、オリーブ山に来る時、イエスは宗教指導者たちから指名手配されていました。
宗教指導者たちの本拠地であるエルサレムに行けば、そこで自分の身に何が起こるかわかったでしょう。
そんな中で、イエスはエルサレムへと足を運びました。
そうであるならば、私たちがイエスに期待する姿はどういうものでしょうか?
それは、自らの死を受け入れ、死に立ち向かうイエスの姿です。
死を恐れるのではなく、勇敢に死に立ち向かうイエスの姿です。
与えられた使命を果たそうと、堂々とした姿で、十字架に向かっていくイエスの姿です。
しかし、逮捕される直前、ゲツセマネで祈るイエスには、そういう姿は全く見られません。
明らかにイエスは、何かを恐れ、怯えていました。
イエスが恐れ、怯えたもの
それでは、この時イエスは何を恐れていたのでしょうか?
42節 を見ると「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」とイエスは祈っています。
「この杯を取りのけてください」と言っているように、イエスが恐れていたのは「この杯」です。
この杯というのは、単に死ぬことではなく、十字架で死ぬことです。
イエス様にとって、十字架の上で死ぬことは、殺されること以上の意味がありました。
そもそも、十字架刑というのは、ローマで行われていたもので、主人や国家に反乱を起こした罪を裁くための見せしめの処刑方法でした。
この時のイエスにとって、十字架にかかるというのはどういうことだったでしょうか?
本来、イエスには裁かれる罪はありません。
それにもかかわらず、イエスが十字架にかかったのは、私たちの罪を代わりに背負ってくださったからです。
本当は私たちが負うべき罪の裁きを、イエスが負ってくださったのです。
つまり、イエスにとっての十字架というのは、罪の裁きとしての「死」です。
罪の裁きという時、そこには父なる神様が関わっていました。
イエスは肉体を持っていたので、もちろん、十字架系という酷い方法で死ぬこと自体、辛かったと思います。
ただ、それ以上に、イエスが恐れたことは、罪人として裁かれることだったと思います。
なぜなら、罪人として裁かれるというのは、父なる神様に見捨てられてしまうことだったからです。
それを表すように、イエスは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と祈りました。
これは「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになるのですか」という意味です。
イエスが感じていた恐れは、父なる神様との関係が絶たれてしまうことへの恐れだったのです。
それでも、イエスは私たちの救いのために「しかし、御心のままに」と祈られました。
イエスはひとり、十字架への道を歩んでいかれました。
受難週にあたって、私たちは、この苦しみもだえるイエスの姿をもう一度目に焼き付ける必要があります。
父なる神様に見捨てられ、その関係が絶たれてしまうという恐れの中で、十字架へと向かわれたイエスを見つめる時間を持ちたいと思います。
沈黙の中で、しばらく、十字架に向かうイエスの姿を見つめ、黙想の時を持ちましょう。