牧師ブログ

「一つの体〜共に苦しみ、共に喜ぶ〜」

【コリントの信徒への手紙Ⅰ12:14-27】

14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

ピラミッド構造

先週の礼拝で「私たちはいろいろだ」ということを話しました。
自分が持っているものもあれば、自分にはないものを持っている人がいます。
人それぞれ、与えられているものが違うので、務めや働きもいろいろです。

そのように、教会というのは多様性があります。
多様性が認められるところです。

その流れの中で、パウロがもう1つ、伝えようとしていることがあります。
それは「教会は一つである」ということです。
パウロは教会が一つであることを人間の体にたとえて語っていきます。

14節に「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています」とあるように、教会は体のように多くの部分からなっています。

当時のコリント教会というのも、とても多様な人々が集まっていました。
コリントは大都市だったので、多くの人が行き交う場所であり、いろんな文化や価値観が交錯した街だったのでしょう。

人間関係においては、ローマ皇帝を頂点にしたピラミッド構造がありました。
特別に知的であったり、裕福であったり、社会の中で影響力を持つ人々は、誰かを経済的に援助する代わりに、その見返りとして、自分に従わせたり、自分のことを称賛させたりするパトロンがいました。

そのような階層社会が教会の中にも入り込んで行きました。
教会の中でも、ある人が他の人々を支配するという上下関係があったようです。

特にコリント教会は、霊的な賜物が豊かな教会でした。
社会的な立場や自分の賜物によって、力比べが行われていたのです。

役に立つか立たないか

このようにして、教会の中にもピラミッド構造が構築されていく中で、コリント教会の中には「私なんて必要ない」と感じていた人が生まれてきます。

15-16節に「わたしは手ではないから、体の一部ではない」「わたしは目ではないから、体の一部ではない」とあります。
これはつまり「私なんて必要ない」ということです。
ピラミッド構造の中で力比べが行われ、結果として、ここに私がいる意味はないと思う人が出てくるのは自然なことかもしれません。

そのように「私なんて要らない」と思う人々が生まれる環境では「お前なんて要らない」という声も同時に出てきます。

21節に「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」とあります。

私たちの体は、いろんな役割を持った部分が集まって、一つの体を形作っています。
いろいろな部分があるので、特によく使う部分、重要な部分と、重要度や貢献度では劣る部分があります。

目や口、耳や鼻に比べたら、眉毛とか髪の毛は、ランクは下のように思います。
自分から眉毛を剃る人もいるように、ほとんどの人が、目がなくなるよりも、まだ眉毛を剃られたほうがいいと考えるでしょう。

コリント教会の中にも「私なんて必要ない」と思ったり、お金や権力を持っている人がそうではない人に向かって「お前なんていらない」と言ったりするようなことがあったのだと思います。

そうやって要るか要らないか、役に立つか立たないかということで、私たちは自分自身や周りの人を見てしまうことがあります。
これは人間が抱え持つ弱さの一つだと言えます。

しかし、教会という集まりは自分がここに必要か必要じゃないかを判断されて、できあがったわけではありません。
役に立つか立たないかという基準で、誰かに判断されて選ばれた集まりではありません。

神様は私たちの体のあらゆる部分をご自分の望みのままに、置かれました。
これと同じように、神様は、私たち一人一人を教会の一つの部分として、ここに置いてくださっています。
神様が私を教会という体の一部としてくださったということです。

私たち一人一人が大切な部分として存在しているからこそ、私たちは、お互いに配慮し合うことができるのです。

単なる一つの体ではなく

ここまで、教会は体のように一つであるということを話しましたが、ここでパウロが伝えたいとは、単に体の話ではありません。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(25-27節)

「あなたがたはキリストの体である」とあるように、教会はただの体ではなく、キリストの体です。
キリストの体の部分部分が、私たち一人一人です。

キリストの体であるというのは、何を意味するでしょうか?
それは、キリストの中で密接に結ばれているということです。
教会は単なる体ではなく、キリストの体なのです。

私が小学生の時に、右手の中指の爪が剥がれたことがあります。
体の指は手足全部合わせて、20本あります。
そのうちの1本だからと言って「まだ19個残ってるから、まあいいか」とは思いません。

私の右手中指の爪は、体全体から見たら、ほんの一部分ですが、これは私の中指だけの問題でも、右手だけの問題でもありません。
一本の指先に起こった出来事は、私自身に起こった出来事です。

このように、体は、一つの部分が苦しめば「私」という全ての部分が苦しみます。
逆に、一つの部分が喜べば、私全体が喜びます。
中指に爪が生えてこれば、私全体が喜ぶのです。

教会が、キリストの体であるということは、キリストと私たちはそのように深く結びついているということです。
一人一人がキリストと深く結びつくことで、またお互いに、キリストを頭として一つの体を形作っていくことができるようになるのです。
教会はキリストの中で一つなのです。

イエスは体である私たちのことを、自分自身のこととして感じてくださっています。
私に起こることは、イエス自身に起こることであり、私が痛むことは、イエスが痛むことであり、私が喜ぶことは、イエスが喜ぶことです。
教会に起こるとは、イエス自身に起こることなのです。

教会が体のように一つになることができるのは、そこにキリストがいるからです。
キリストの中で、私たちはお互いに配慮し合う一つの体となることができるのです。