牧師ブログ

「アドベント① 終わりから見た今」

【ルカによる福音書21:20-33】

20「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。
22書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。
23それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。
24人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
25「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
29それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。
30葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。
31それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
32はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
33天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

新年明けましておめでとうございます

今日からキリスト教のカレンダーでは、新しい年が始まりました。
私たちが普段使っているカレンダーでは、1年の始まりは1月1日ですが、キリスト教のカレンダー的には、今日が新年最初の日となります。

教会の新年は、アドベントという期間から始まります。
今日からアドベントの期間が始まり、その後にクリスマスが訪れます。

アドベントという呼び名は「到来」を意味するラテン語に由来する言葉です。
「到来」というのは、イエスキリストの到来のことで、今日からクリスマスまでの間は、イエスの到来に心を留める期間です。

「キリストの到来」という時、聖書には二つの到来が描かれています。

一つは、2000年前にすでに起こったことで、クリスマスの出来事です。
今から2000年前のユダヤに、イエスは人間として生まれました。
これが、イエスの第一の到来です。

もう一つの到来は、これから起こることです。
いつかははっきりとはわかりませんが、聖書はこの世界が終わる時、イエスが再びこの地に来られると伝えています。
これは「再臨」と呼ばれる出来事で、これがイエスの第二の到来です。

アドベントの期間は、2000年前にイエスが来られたことだけではなく、世の終わりに、再びイエスがこの世界に来られることを思う期間でもあります。
アドベントは1年の始まりにあたりますが、意味合いとしては「始まり」よりは、むしろ「終わり」に思いを向ける期間だと言えます。

この世界はどこに向かっているのか

私たちが「終わり」という時、大きく二つの意味での終わりがあります。
一つは、「あぁ、終わった…」「もうだめだ…」という意味での終わりです。
この終わりは、物事がうまくいかなくて、落胆とか絶望へ行き着きます。

もう一つの終わりは「やっと終わった!」という意味での終わりです。
課題やレポートをやっていて「ついに終わったー」という時の終わりで、これは、やるべきことをやり終えて、喜びや安堵に行き着きます。

先ほど読んだ聖書の前半と後半では、この二つの終わりについて語られていました。
前半は20-24節まででで、具体的には、エルサレムの終わりについての話です。

エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。(20節)

これは、ローマの軍隊によってエルサレムは滅亡するという預言の言葉です。
24節の終わりにも「エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」とあるように、エルサレムの終わりは「あぁ、もうだめだ」という方の終わりです。

実際に、イエスがこれを語った40年くらい後に、エルサレムの神殿はローマ軍によって焼き払われ、エルサレムはローマに占領されることになります。
イエスがエルサレムについて預言した終わりは、破滅とか絶望という意味での終わりです。

次に、本文の25節以降で、イエスが語っているもう一つの終わりがあります。
それは、この世界の終わりについてです。
イエスは、世界が終わる時に生じるしるしについて語っています。

25節を見ると、太陽や月、星といった天体にしるしが現れ、地上では海が荒れ狂います。
天体には26節の後半にあるように「天体が揺り動かされる」ようなしるしが現れます。

当時の人々にとって、太陽、月、星という天体は、常に秩序を保っているものの代表的なものでした。
確かに、天体は神様がはじめに創造された時から、この歴史上で、戦争が起ころうとも、災害が起ころうとも、どんな時も変わらずに秩序を保ち続けてきました。

その天体が揺り動かされるということは、どういうことでしょうか?
それは、この世界の秩序が崩れるということです。

25〜26節に「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。」とあるように、天体が揺り動かされる時、人々の心は不安と恐れでいっぱいになります。
この世界の終わりは、エルサレムの終わりと同じように、破滅と絶望で終わるように見えます。

完成によって終わる世界

しかし、27節以降を見ると、そういう出来事は破滅ではなく、むしろ、完成という終わりであることがわかります。

そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。(27-28節)

天体が揺り動かされ、この世界が不安や恐怖でいっぱいになる時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってやってきます。
ここで、人の子というのはイエスご自身のことです。
イエスは再びこの地上へとやって来ると、再臨について語っています。

このように、イエスが再び来られる時、この世界に終わりが訪れます。
イエスはその時は「破滅の時」ではなく、「解放の時」だと言っています。

28節の最後に「あなたがたの解放の時が近いからである」とあります。
世界の終わりに、イエスが再臨される時、私たちは罪や悪、苦しみや痛みなど、私たちを縛っていたものから解放されます。
この「解放の時が近い」という言葉は、また別の言葉で「神の国が近づいている」(31節)と表現されています。

世界の終わりには、それまでは当たり前だった秩序が壊れ、私たちは不安と恐怖でいっぱいになりますが、それは破滅の時ではありません。
神の国が近づいた時、すなわち、世界が神の国として完成する時なのです。

神様の救いが完成し、この世界に完全に神の国が実現する時が来ます。
そういう世界へと、この世界は向かっているのです。

混沌とした世界の中で

ここまで話を聞きながら、世界の終わりとこの私とどういう関係があるのかと思ったかもしれません。
「この世界がどう終わったとしても、別にどういうでもいい」と。

しかし、聖書が世界の終わりについて明らかにしているのは、単なる情報提供のためではありません。
世界の終わりを知ることは、私たちが今、この時をどう生きるのかということと密接につながっているのです。

今、平日にカフェをやっていますが、毎日、終わりの締めの作業は私が担当しています。
18時に閉店しますが、1ヶ月くらいやりながら、1日がどういう流れでどんな状況なのかがわかってきました。
そうすると、18時という終わりに向かって、その時、その時でなすべきことがわかってきます。

頼りにしていたものが失われ、秩序が崩れ、物事が悪くなっていく時、私たちの心は不安と恐怖でいっぱいになるでしょう。
そういう状況の中で、多くの人々は、この世界は破滅や絶望へと向かっていると感じでしょう。
「あぁ、もう終わりだ」と。

そこには希望はありません。
そういう世界の中で、希望を見出すことは難しいでしょう。

今の世界を見ても、私たちはこの世界がよくなっているとはなかなか思えないかもしれません。
しかし、イエスは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(33節)と言っておられます。
これは、イエスの言葉だけは残る、すなわち、イエスが言ったことは必ず実現するということです。

この世界は、今日も確実に終わりに近づいていっています。
秩序が崩壊し、物事が悪くなり、混沌とした世界を見ると、不安と恐怖に苛まされることがあるかもしれません。

しかし、それでも私たちは、神様に希望を持つことができます。
それは、神様がこの世界を完成へと導いていることを信じるからです。

このアドベントの期間、イエスの到来に心を向けながら、今という時間を大切に生きていきたいと思います。