偉くなりたいという思い
今読んだところは、イエスと12人の弟子たちが、エルサレムに向かっている途中に起こった出来事を記しています。
この時、イエスがエルサレムに向かっていた目的は、十字架にかかるためでした。
イエスは、エルサレムに向かいながら、そこで苦しみを受けて、殺されることをわかっていたようです。
このように、イエスの身に十字架の死が迫り、緊張感が高まっていた頃、弟子たちの思いは、イエスとは全く違うにところに向けられていました。
弟子たちの中で、ヤコブとヨハネの2人がイエスに、ある願いを打ち明けます。
「栄光をお受けになるとき」というのは「イエスがユダヤの王になるとき」のことです。
また「あなたの右と左に座らせてください」というのは「王であるイエスに次ぐ地位を自分たちに与えてください」ということです。
つまり、ヤコブとヨハネは、エルサレムに行き、そこでイエスがユダヤの王となった暁には、自分たちを、他の弟子たちよりも高い地位に就かせてほしいと願い出たわけです。
弟子たちの中には、この後エルサレムで、イエスは新しい王として迎えられるという期待がありました。
このやりとりを他の10人の弟子たちも聞いていたが、実は、彼らにもヤコブとヨハネの二人と同じような思いを抱いていました。
この場面の少し前に書かれている話で、9章を見ると、弟子たちが「誰が一番偉いのか」を議論し合っていた場面が出てきます。
また、今日の場面の41節を見ると「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。
他の弟子たちが腹を立てたのは、自分たちを出し抜いて、良い地位を得ようとしたことをよく思わなかったからでしょう。
このように「偉くなりたい」という思いは、ヤコブとヨハネだけではなく、12人の弟子たちみんなが持っていたことでした。
ヤコブとヨハネがイエスに自分たちの願いを打ち明けた時、他の弟子たちも聞いていたが、普通、こういうことは、裏で、他の人に知られないように話すと思います。
しかし、二人がみんないる中で、あえてそういう思いを打ち明けたということは、二人の中に優越意識があったのだと思います。
そうやって誰かの上に立ったり、誰かを見下したりするところに問題が起こります。
お互いに比較して、優劣を争うのは、そこに違いがあるからです。
見た目も、性格も、能力も、価値観もみんな同じだったら、そこに優劣というのは生まれません。
しかし、対立が生まれ、優劣を争うのは、みんな違うからです。
みんな違っていいし、違うのは当たり前ですが、その違いによって争い、分裂してしまうのが人間の弱さであり、限界なのでしょう。
偉くなりたいのであれば
それでは、ヤコブとヨハネが重要なポストを願い出た時、イエスは二人の言葉をどのように受け止めたのでしょうか?
ここで「わたしが飲む杯」と「わたしが受ける洗礼」というのは、イエスがエルサレムで受ける苦難のことを指しています。
この時、エルサレムでイエスを待ち受けていたのは、十字架という苦難でした。
これを聞いた2人は「できます!」と即答しているが、おそらく2人は、この後イエスが十字架にかかって死ぬことなど、全く想像もしていなかったはずです。
弟子たちが期待していたことは、イエスがユダヤの王となり、その権力によって、ユダヤをローマ帝国の支配から解放することにありました。
弟子たちをはじめとして、当時のユダヤ人が待ち望んでいたメシアというのは、自分たちの国を敵から解放してくれる王です。
しかし、今、イエス様がエルサレムに向かっているのは、そのようにユダヤの王となるためでも、偉い立場について国を支配するためでもありませんでした。
イエスは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と弟子たちに言われました。
イエスは「偉くなりたい」という思いに対して「そんなことを思ってはならない」と、弟子たちを一蹴されたわけではありません。
イエスが否定されたのは「偉くなること」や「社会的な地位を得ること」ではなく、当時の支配者や権力者のあり方だったと思います。
当時の世界では、一国のリーダーは、民を支配し、コントロールする絶大な力を持っていました。
人権や人間に対する尊厳など、ほとんどない時代です。
ローマ帝国によって支配されていたユダヤの民も、不当な権力によって、苦しんでいました。
それでイエスは、この世で偉くなること、高い地位に就くことはどういうことであるのか、その在り方を教えられました。
イエスが言われた「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」という言葉は、言い換えればこういうことだったでしょう。
「偉くなりたのであれば、誰よりも偉くない者のようになりなさい」、「一番上になりたいのであれば、誰よりも下にいる人のようになりなさい」。
これはつまり、高い地位を得ることによって与えられる権力は、自分の思い通りに誰かをコントロールするためのものではなく、人々の思いや必要とすることに応えるためのものであるということです。
偉くなると、もっと人に仕えることができるようになるのです。
命の使い方
まさに、イエスは神様としてこの世に来られたお方でありながら、誰よりも低い者となってくださいました。
イエスこそ、私たち皆に仕える者になり、すべての人の僕になってくださったお方です。
イエスは自分が「すべての人に仕えるメシア」として来られたことを、この場面の最後で弟子たちに明らかにしておられます。
「人の子」というのはイエスのことであり、イエス様は「私は仕えるために、自分の命を捧げるために来たのだ」と言われました。
ここでイエスは、自分のことを「多くの人の身代金」と言っておられます。
「身代金」というと、普通は「誘拐された人を解放するために支払うお金」のことを指して使いますが、当時の世界において、この言葉は「戦争で捕虜になった人や奴隷として売られた人を解放するために支払うお金」のことを指しました。
つまり、他の人の所有となったものを自分のもとに買い戻すために支払うお金が、身代金でした。
自分のもとに買い戻すということは、その人が負っている負債を代わりに支払うということです。
イエスは私たちが負っている負債を代わりに支払うために、身代金としてこの世に来られました。
私たちは、神様との距離感がわからなくなり、本来の主人である神様のもとを離れ、罪という主人の奴隷となってしまいました。
罪という主人のもとで、罪に支配され、罪の中で苦しみながら生きていくしかなかった。
しかし、神様は罪という主人から私たちを買い戻すために、イエスを身代金として差し出してくださった。
イエスは本来、私たちが支払うべき負債を代わりに負って、命という代価を身代金として払って、私たちのことを神様のもとに買い戻してくださいました。
イエスが「身代金として自分の命を献げるために来た」というのはそういうことです。
イエスが命を捧げてくださったのは、私たちを買い戻す価値があったからに他なりません。
偉くなるかならないか、社会的に高い地位につくかつかないかは、そこまで問題ではないのでしょう。
偉くなりたかったから偉くなればいいですし、そこまで責任を負いたくなければそうしなければいいだけのことです。
いずれにしても大切なのは、自分たちの命をどう使うのかということです。
誰かに仕えるために自分の命を使うのか、それとも誰かを自分に仕えさせるために命を使うのか。
私たちは、イエスではないので、まったく同じように考え、生きることはできません。
それでも、イエスが示してくださった仕える生き方を見ながら、私たちには私たちなりの「仕え方」「命の使い方」があります。