そこに神様がいること
今日分かち合うところは、ヤコブの手紙の最後の部分です。
ヤコブがこの手紙の中で、最後に伝えていることは「祈り」についてです。
13節と14節の中に、3種類の人が出てきます。
それは、苦しんでいる人、喜んでいる人、病気の人です。
苦しんでいる人は、祈りなさい。
喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。
病気の人は、祈ってもらいなさい。
とヤコブは言っています。
苦しんでいる人、喜んでいる人、病気の人とありますが、私たちは人生の中でこれら3つのことをすべて経験しながら、生きていると思います。
苦しむ時があり、喜ぶ時があり、病気の時があるのが、人生です。
そういう意味で、祈ること、賛美の歌を歌うこと、祈ってもらうこと、これらすべてが私たちの人生に関わりのあることだと言えます。
祈ること、賛美の歌を歌うこと、祈ってもらうことすべてに共通していることがあります。
それは、そこに神様がいることです。
祈りなさいというのは、神様に対して祈ることです。
賛美の歌を歌いなさいというのも、神様に対して賛美することです。
祈ってもらいなさいというのも、自分の話を聞いた誰かが、神様に対して祈ることです。
このように、私たちは苦しみを感じる時、喜びを感じる時、神様に対して、自分の正直な思いを打ち明けることができるのです。
苦しい時は、神様に向かって「苦しいです」と言うことができます。
喜ぶ時は「ありがとうございます」と言うことができます。
苦しみの中からの叫び
聖書の中で、苦しみや喜びをそのまま表現したものが書かれている書物があります。
それが、旧約聖書の中にある「詩篇」という書物です。
詩篇というと「神様への賛美の詩」として知られていますが、ただ、その中身をよくみてみると、ただ感謝しますとか賛美しますということだけが書かれているわけではありません。
詩篇は全部で150の詩がありますが、その半分近くは、ダビデという人によって書かれたものだと言われています。
ダビデというのは、とても敵が多かった人です。
命を狙われて逃げ回る期間も長く、自分の子供からも命を狙われている時期があったほどです。
そのため、ダビデが書いた詩には、ある特徴があります。
それは、その多くが「苦しみの中からの叫び」であるということです。
ダビデの詩を見る限り、喜びの歌というよりも、苦しみの叫びの方がずっと多いのです。
この時のダビデの状況までは詳しくわかりませんが、誰かがダビデを苦しめていたことは確かでしょう。
ダビデは今置かれている状況について、神様から責められているような、懲らしめられているような感覚の中でー実際には神様がそうしたわけではないと思いますがーこの歌を歌いました。
私がこの詩の中ですごい共感できるところは、4節の最後の部分です。
「主よ、いつまでなのでしょう」という言葉です。
「いつまでこれが続くのか」と嘆いた経験が、誰にもあると思います。
いつになったら終わるのか、と。
ダビデの詩見ると、自分は神様の前では何も隠すことができないこと、神様は自分のすべてをよく知っているということをダビデが認識していることがわかります。
ダビデは祈りの中で、自分の罪の告白をよくしています。
それは、ダビデの中で、自分は神様によって造られ、それゆえに神様の前にはすべてが明らかにされているという信仰があるからです。
ダビデの祈りを見ると、敵を呪っているような言葉も多いですが、でも、とても人間らしさが感じられます。
ただ、賛美します、感謝しますだけではなく、自分の思いを神様に伝えた上で、ダビデは主を賛美しているのです。
13節の「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」という言葉は、私たちがどんな状況であっても、神様に自分の思いをそのまま正直に祈ることができることを教えてくれています。
信仰の仲間
そして、祈りにおいてもう1つ大切なことは、私たちはお互いに祈り合える信仰の仲間であるということです。
16節に「罪を告白し合い」とありますが、人に罪を告白することは簡単にできることではありません。
罪というのは、自分の弱さであり、できれば隠しておきたいことだからです。
そのため、本当に信頼できると思う人に対してであれば、告白してもいいかもしれませんが、誰とでも自分の罪を分かち合えるわけではありませんし、いつもそうしなければいけないわけでもないと思います。
罪はとてもデリケートな問題を含んでいるので、ダビデがそうしたように、何よりもまず、罪は神様に対して告白すればいいと思います。
なので、この「罪を告白し合う」というのは、自分の問題や弱いところを分かち合うという程度で受け止めておけばいいのでしょう。
全部を打ち明かすことは難しかったとしても、私たちは自分の心を分かち合いながら、お互いのことを知り、相手のために祈ることができます。
これこそが教会の交わりであり、教会のユニークなところだと言えます。
教会というのは本来、建物のことではなく、信仰の仲間のことです。
教会はただの仲良しグループとは違います。
大学や会社、また社会のいろんなコミュニティの中でも、親友と言える友人を作ろうと思えば作れると思います。
それはそれで意味があることだが、教会でしか築くことのできない関係があります。
それが「お互いのために祈り合える」関係です。
自分の生活で起こったことや問題を分かち合って、神様に祈り合えるのが教会です。
なので、教会の中でお互いに比較したり、競争を始めたりすると、そういうことはなかなかできなくなります。
相手の上に立とうとしたり、裁き合ったりする関係になってしまうからです。
私が願うことは、教会が安心して存在できる場所であって欲しいということです。
安心して自分のことを分かち合える場所であってほしいということです。
そうやって、自分のことを話せるのは、相手が自分を受け止めてくれると思えるからです。
私たちは信仰の中で、自分自身をお互いに分かち合って、神様に対して祈ることができる信仰の仲間です。
信仰の仲間が共にいるからこそ、私たちは教会として集うことに意味があるのです。