舌について
今読んだところの初めに「あなたがたのうちの多くの人が教師になってはなりません」とあります。
この中には、教師の方がいますし、私も教師みたいな立場にあると言えます。
なぜヤコブがそういう話をしているかというと、それは言葉の問題について取り上げたいからです。
言葉には、とても大きな力があります。
言葉は、私たちの口から簡単に発することができるが、それが大きな影響を与えることがあります。
言葉は小さなもののように思えて、とても影響力があるのです。
小さなものが全体を動かすということについて、ヤコブはいくつかのたとえを話しています。
まず、3節にあるのは、馬の話です。
馬は人が乗る時に「くつわ」といって、口に金具をくわえさせます。
馬に乗る人は、手綱を持つが、それはくつわにつながっていて、手綱を操ることで、馬の動きをコントロールすることができます。
くつわは、馬の口の中に入るぐらい、小さいものですが、それ1つで、何百キロもある馬をコントロールすることができるのです。
また、4節にあるのは、船の話です。
船をコントロールするのは、舵と言われるハンドルです。
舵は船全体から見たらとても小さな部品ですが、船が強風にあおられても、小さい舵で大きな船をコントロールすることができます。
また、5節では、山火事の話をしています。
山火事の始まりは、小さい火です。
始まりは小さかったとしても、大きい森を燃やしてしまうほど、火には大きな力があります。
ヤコブは、人間の舌もこういうものと同じだと言っています。
舌は、物を噛んだり味わったりすること以外に、言葉を話すためにとても重要なものです。
舌というのは、人間の体全体から見たら、とても小さな器官です。
でも、舌は言葉を発することで、大きな働きをすることができます。
馬のくつわも、船の舵も、火も、うまく使うことができれば全体をよくコントロールすることができますが、使い方を間違えれば、大変なことが起こります。
同じように、舌もうまく使えば、良い影響を及ぼすことができますが、使い方を間違えると大変なことになります。
ヤコブは知っている
特に、舌はくつわや船の舵よりもずっと使い方が難しいのです。
ヤコブはこのように言っています。
ヤコブは舌のことを、地獄の火とか、死をもたらす毒とか、とても強烈な言葉を使いながら、舌の恐ろしさについて語っています。
私たちの体はいろんな器官から成り立っていますが、舌一つだけで、私たちの体全体を汚したり、人生をボロボロにしたりすることもあります。
さらに「地獄の火によって燃やされる」とあるように、私たちの裁きにもかかわることなのです。
舌をいつもうまく使いすことができればいいが、舌をコントロールできる人は一人もいません。
私たちは舌で神様を賛美しながらも、同じ舌で、神様が造られた人間を呪います。
同じ口から賛美と呪いが出てきます。
舌というのは、要取り扱い注意なのです。
そうだとしたら、私たちはどうしたらよいのでしょうか?
ヤコブはこの箇所で「こうしましょう」という具体的な対策みたいなものは言っていません。
10節を見ると「同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」と言って、この話は大体終わっています。
ヤコブの結論は「このようなことがあってはなりません」です。
でも、ヤコブは知っています。
このように、言葉で過ちを犯さない人は誰もいません。
舌を完全にコントロールできる人は誰もいないことをヤコブはよくわかっています。
その上で、舌で罪を犯してはならないと言っています。
舌で罪を犯さない人は誰もいないというのは、真理でしょうか、真理ではないでしょうか?
それは、真理です。
ヨハネの手紙一1:8に「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。」とあるように、言葉だけの問題ではなくて、罪を犯さない人は誰もいません。
もし、自分に罪がないと言うのであれば、その人のうちに真理はない。
これと同時に、舌で罪を犯してはならないということも、また真理です。
ヨハネの手紙一2:4には「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。」とあるように、神様を信じていながら、神様の掟を守らないのであれば、その人のうちに真理はありません。
聖書は、罪を犯しても何も問題ないよと、罪を肯定しているわけではありません。
それでも真理がわたしを生かす
そうだとすると、私たちは2つの真理の間で板挟みになってしまいます。
舌で罪を犯してはならないが、舌で罪を犯さない人は誰もいません。
こうしなければいないことはわかっていても、でもそれができない、やってはいけないことをわかっているけどやってしまうのが、人間です。
私たちはどうしたらいいのでしょうか?
多くの場合、2つの真理に挟まれた時、自分はダメな人間だと、自分のことを責めてしまう傾向があります。
聖書は真理を伝える本であるにもかかわらず、真理と真理の間に板挟みになった時、そこには救いがないということになってしまいます。
しかし、この時、私たちが何よりも心に留めるべき真理があります。
たとえ罪を犯したとしても、罪を犯すことから逃れられないとしても、私たちにはいつも正しい方であるイエス・キリストがおられます。
イエス・キリストだけが、私たちの罪を背負い、その罪をすべて償うことができます。
私たちは自分の罪や過ちをすべて自分のせいにして、自分を責めてしまうかもしれません。でも、その重荷を背負ってくださる方がいるのです。
もう自分ばかりを責めなくてもいいよと、その重荷はすべて私が背負うよ、と言ってくださる方がいるのです。
それが、イエス・キリストです。
このように、聖書には赦しがあります。
赦しというのは、罪を帳消しにするマジックのようなものではなく、別の言い方をすれば、存在を認めてくれることです。
神様が私たちを赦してくださるというのは、私たちの存在を認めて、肯定してくださるということです。
これが聖書で言われている、最も大切な真理です。
「すでに受け入れられている」「何があっても見放されることはない」という土台があって初めて、その上に他の真理が成り立つのです。
神様は私たちに舌という器官を与えてくださいました。
言葉というコミュニケーション手段を与えてくださいました。
それをどのように用いるかは、私たちに委ねられています。