成長ってナニ??
今日は、パウロが書いた手紙から「成長」について分かち合いたいと思います。
この手紙は、パウロがエフェソという地域にある教会に宛てて書いたものですが、この中で、パウロが繰り返し使っている言葉がいくつかある。
その1つが「成長」という言葉です。
13節「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」
15節「頭であるキリストに向かって成長していきます」
16節「おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ…」
このように、パウロはクリスチャンは成長していく存在であると言っています。
普通、成長というと、どんなことをイメージするでしょうか?
人間であれば子供が大人に成長することや、植物が成長する過程が思い浮かびやすいでしょう。
見た目が大きくなること、新たな知識や能力を身につけること、できなかったことができるようになること、そういうことを成長と捉えると思います。
人間がいろんな面で成長していくように、クリスチャンも成長していく存在です。
なぜなら、救いというのは、キリストを信じた時点で完成するわけではなく、その時点から救いが始まっていくからです。
信仰生活というのは、クリスチャンが1人の人間として成長していく過程だと言えます。
その時によく考えなければならないことがあります。
それは、クリスチャンとして成長するとはどういうことなのか、ということ。
クリスチャンとして成長するというのは、信仰が成長するということですが、何をもって信仰が成長したと言えるのでしょうか?
どんなことがあっても、日曜日の礼拝を絶対に守って捧げることが、成長したクリスチャンの姿でしょうか?
毎日欠かさずに聖書を読み、聖書の知識を得たり、毎日祈りを欠かさずに捧げながら生きていくことが、クリスチャンとして成長した姿でしょうか?
あるいは、道徳的に清く正しく生きていけるようになることが成長でしょうか?
一つになること
クリスチャンとして、いろんな形の成長があると思いますが、今日の御言葉を見ると、パウロはクリスチャンにとっての成長は、単に個人の内面のレベルのことではないと考えていることがわかります。
パウロが成長について語る時は、ただ個人の内面のことではなく「キリストの体」というイメージの中で語っています。
パウロは「キリストの体において、成長しましょう」ということを語っているのです。
「キリストの体において成長する」というのは、教会で言えば「教会が一つになること」です。
1-3節を見ると、クリスチャンというのは、神様から招かれた者です。
私たちは、自分1人で神様のことを知り、神様を信じるようになったわけではありません。
キリストが私たちの世界に人間として来てくださったことからわかるのは、神様が私たちに歩み寄って来てくださったということです。
そういう意味で、私たちは神様から招かれた者です。
そうやって神様から招かれた者は、その招きにふさわしく歩むようにとパウロは言っています。
それがどういう歩みであるのか、2節見ると、一切、高ぶらないこと(謙遜)、柔和であること、寛容の心を持つことです。
謙遜、柔和、寛容というのは、個人の内面のレベルの話であって、そこが終着点ではありません。
2節の後半から読むと「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」と書かれています。
つまり、謙遜、柔和、寛容というのは、互いに忍耐し、平和の絆で結ばれ、霊による一致を保つために身につけるべきものだということです。
目指すべきところは、一つになることなのです。
今日の御言葉の中で、パウロが「成長」という言葉の他にも、繰り返し語っている言葉が「一つ」という言葉です。
4節「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと…」
5節「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」
13節「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり…」
このように、パウロは「一つ」という言葉を繰り返し語りながら、教会は一つであることを強調しています。
クリスチャンにとって信仰が成長するというのは、単に、私個人の内面や能力の話ではありません。
私たちが教会として一つになっていることが、成長の証なのです。
みんなオリジナルな存在
ただ、一つになるというのは、言葉で言うのは簡単ですが、実際には、人間にとって最も難しいことの一つだと思います。
昔からどの時代でも、どんな場所でも、この世界から争いは無くなりません。
国や民族のレベルでも、家庭や会社など、どんな世界にも争いはつきものです。
争いに発展する大きな要因は、私たちの間に「違い」というものがあるからです。
性格や考え方、価値観が違うことで、それが争いに発展することがよくあります。
だからと言って、違いをなくせばいいという話でもありません。
そうやって全体主義で人々をコントロールしようとする国もありますが、神様は私たち一人一人を完全にオリジナルな存在に造っています。
育つ環境や背景がすべて違うので、違いをなくすことは人間性を失わせることです。
それで、パウロは私たちが一つになるために、もう1つ大切な話をしている。
それが、私たち一人ひとりの話です。
4章の前半は、一つという話をしているが、7節からは、一人一人の話をしています。
7節「しかし私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」
11節「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」
神様は私たち一人一人に、賜物を与えてくださっています。
一人一人に異なる賜物が与えられているので、教会の中で言えば、ある人は使徒、ある人は預言者、ある人は宣教者、ある人は牧者、教師として存在しています。
このように、私たちはお互いに異なる存在です。
考えることも違うし、できることも違います。
それは、神様がそのように私たち一人一人に、違う賜物を与えておられるからです。
人と違うというのは、ある意味で当たり前のことです。
だから、自分に与えられていないものが、他の人に与えられているということは、悔しいことではなくて、本来は喜ばしいことです。
私は、単に人と何かが違うということだけで、人との関係を切っていくというのは、神様が願っていることではないと思います。
相手が危害を加えてくると場合は、そういう人とは距離をとって、自分を守る必要はありますが、ただ、考えや思想が違うというだけで、関係を断ち切るのは、私はあまりいいことだとは思いません。
よく宗教者の中では、自分と違う宗教の人とは付き合わないという人がおられます。
でも、私は、宗教が違うからという理由だけで、人との関係を断ち切るというのは、あまりしたくはありません。
見下すところに生まれる争い
仏教のお坊さんでチャンネル登録者数が60万人以上のユーチューバーがいます。
大愚和尚という人ですが、私はその人のチャンネル登録もして、メッセージを聞くこともよくあります。
仏教の全部が全部、危ない教えかというとそうではありません。
仏教の教えから、学べることもたくさんあります。
もちろん、私は仏教徒になるつもりは今のところありませんが、仏教を見下すつもりもありません。
でも、宗教者は、よく宗教が違うということで、自分を上に置いて、相手の宗教を下に見やすい傾向があるように思います。
相手を見下してしまいところに、争いが生まれてしまうのです。
これは宗教だけの話ではありません。
考えや価値観、方法の違いで、相手を見下すことで、争いに発展することはよくあることです。
普通、人が多ければ多いほど、一つになることが難しいと感じるかもしれないが、私は結婚してみて、逆に2人というのがもっと難しいと感じました。
人がたくさんいれば、多数決を取れば一応、物事は進んでいきます。
しかし、2人だと民主主義が通用しません。
考えが異なれば、常に「1 vs 1」の引き分け、ドローです。
だから、自分の考えを押し通すために、自分が相手の上に立つようになります。
そうすると、モノの言い方や態度で相手が見下されたと感じて、言い争いになるのです。
でも、違うということは、神様の計画であり、祝福です。
妻と違うことで言い争うこともあるが、反対に、それで助けられることも多くあります。
自分の考えでは及ばなかったことを、相手を通して、教えられることもあります。
本来、違いというのは争いためにあるのではなく、お互いに足りない部分を補い合うためにあるのです。
クリスチャンとしての成長は、個人のレベルで完結するものではなく、相手を尊重しながら人々と関わり、違いを乗り越えて、一つになっていくところにあります。