同じ信仰の中で争う両者
この世界では、毎日どこかで、争いが起こっています。
家族や友人との間で起こる個人的なものから、国や民族同士で対立するレベルのものまで、いつの時代も、どんな場所でも、あらゆる争い事が起こってきました。
なぜこの世界は、こんなにも争いが溢れているのでしょうか?
人が争う背景には複雑な事情があると思いますが、その根本的な要因はどこにあるのでしょうか?
どんな争い事にも、共通していることは、そこに「違い」というものがあることです。
人それぞれ持っている物差し、価値観が違うので、この違いがきっかけとなって、争いに発展していくことがあります。
そうだとしたら、違いをなくしていけばいいのかというと、そういうことではありません。
なぜなら、神様は私たち1人1人をオリジナルな存在として造っているので、違いがあることは当たり前だからです。
それでは、私たちはこの違いというものをどのように理解したらいいのでしょうか?
どのようにして、違いを乗り越えていくことができるのでしょうか?
今読んだ御言葉の中に、14節には「二つのもの」、15節には「双方」、16節には「両者」、17節には「遠く離れているあなたがた」と「近くにいる人々」、18節には「両方の者」という言葉が出てきます。
この手紙はパウロがかつて今のトルコにあったエフェソという街にいるクリスチャンたちに送ったものですが、教会の中で、2つのグループが対立し合っていました。
エフェソの教会には、現地のクリスチャンとユダヤ人のクリスチャンが一緒に集まっていたが、どうやら彼らは敵対関係にあったようです。
14節の中に「敵意という隔ての壁」という言葉がありますが、これはまさに、彼らの関係性を表している言葉だと言えます。
なぜ、ユダヤ人と異邦人は同じクリスチャンでありながら、対立していたのでしょうか?
その要因は、ユダヤ人の中に、自分たちは神様から選ばれた尊い民だという意識があったことにあります。
ユダヤ人からしたら、異邦人が礼拝する神は、異教の神であり、偽物、偶像です。
そのため、ユダヤ人にとって異邦人のもとを訪れたり、異邦人と結婚したり、一緒に食事をすることは、汚れたことでした。
ユダヤ人にとって、神の民としての聖さを守るために、自分たちと他の民族とを分離しながら生きていくことは、とても重要なことでした。
反対に、異邦人からしても、ユダヤ人がなんか調子に乗っているので、そんな奴らとは付き合いたいとは思いませんでした。
このように、ユダヤ人と異邦人の間には敵という隔ての壁ができ上がり、両者は、長い間、敵対関係にあったのです。
ウォールクラッシャー
この問題について、パウロはどのように考えていたでしょうか?
パウロは両者がちゃんと話し合いの場を設けて、対話することができれば、理解し合えると思っていたでしょうか?
もちろん対話をすることはとても大切なことだが、パウロは両者に対して、そのようなことをアドバイスしたわけではありませんでした。
ここでパウロが伝えたかったことは、また別にあります。
パウロは、イエス・キリストが平和だと伝えました。
平和の鍵は、このキリストにあるということであり、隔ての壁を崩すことができるのは、キリストだということです。
実際に、キリストはどのように敵対している両者に関わっていたのでしょうか?
キリストは十字架にかかって死なれましたが、それは十字架を通して、民族に関係なく神様と和解するためでした。
ここでパウロは、キリストの十字架が両者をお互いに和解させたと言っているわけではありません。
十字架は両者を神様と和解させたと言っています。
ユダヤ人クリスチャンと神様が和解するように、異邦人クリスチャンも神様と和解することができるのです。
つまり、両者の間にある隔ての壁がいきなり壊されるためには、両者と神様との間にあるそれぞれの壁がまず壊される必要があったということです。
彼らにとって必要だったことは、自分たちと神様との間にあった壁が壊されて、自分が赦されていること、神様から受け入れられていることを知ることでした。
争っている両者にとって、まず必要なことは、自分がキリストの十字架によってすでに神様に赦されていること、受け入れられていることを知ることにあります。
だからこそ、今度は相手を受け入れていくという方向に進むことができるのです。
もちろん、敵意という感情は簡単に処理できるものではありません。
敵意という隔ての壁は、そんな機械的に壊されるものではないことを、神様はよく知っておられると思います。
ただそれでも、キリストに一筋の希望があることは確かです。
なぜなら、キリストは神様と人間、人間と人間の間にある壁を壊し、両者を一つに結び合わせるために、十字架にかかられたからです。