持ち物について
今日分かち合うのは、キリストが12人の弟子たちを宣教に遣わす場面です。
キリストは12人の弟子たちを2人ずつペアにして、遣わしました。
この時、キリストが弟子たちに求めたことが2つあります。
1つは、持ち物について、もう1つは、宿泊についてです。
1つ目の持ち物についてですが、キリストは、パンも、袋も、お金も、替えの下着も持たずに行くように言われました。
この時、弟子たちは何日間かはわかりませんが、日帰りではなく、宣教旅行(mission trip)に遣わされたわけです。
だとすれば、もちろん着替えの服や食べ物、お金を持っていかなければなりません。
私も以前、フィリピンに10日間ぐらい、宣教旅行に行ったことがありますが、基本的には、自分たちで使うものは自分たちで用意しました。
自分たちの身の回りのものはもちろん、プレゼントなどなるべく持っていけるものは持っていきました。
いろんなものを段ボールに詰めて持っていきましたが、その中に、プレゼントの服がありました。
古着の服でしたが、預ける時に荷物が多すぎて、全部の段ボールを持って行けないということになりました。
それでどうしたかというと、自分たちで全部の服を着込んで、体で運びました。
すごい変なかっこうで飛行機に乗ったのを覚えています。
このように、普通、宣教先で必要なものは、なるべくこちらでちゃんと準備して持っていくのです。
しかし、キリストは、自分たちに必要なものでさえも置いていくように言われたのです。
宿泊について
そんな中で、持っていってもよいと言ったものもありました。
それが、一本の杖と履物です。
杖はなくてもいいから、もうちょっと役に立つものが欲しい感じもしますが、当時は、今みたいに道路が整えられていたわけではありませんでした。
そのため、杖は歩くためには大切なものだったようです。
皆さんは、これらの命令を聞いてどう思うでしょうか?
今の時代であれば、完全にパワハラです。
出張に行く時に、杖と靴だけ持って行きなさいという会社はさすがにありませんし、たとえダメだと言われても、自分で勝手に用意して持っていくでしょう。
でも、キリストは杖と靴以外は全部置いて行くように言われました。
これが、イエス様が宣教に遣わす弟子たちに求めた1つ目のこと。
キリストが弟子たちに求めた2つ目のことは、宿泊についてです。
キリストは、宣教先で、ホテルのようなところではなく、誰かの家に泊まるように言われました。
今だったら旅行に行く時は、普通、ホテルを予約してから行きます。
少なくとも、誰か知り合いの人の家に泊めてもらうでしょう。
全く知らない人の家に泊めてもらうことなんて、考えもしないことだと思いますが、ただ、当時のユダヤは今とはそのあたりの感覚が違いました。
ユダヤでは、旅人に対して、泊めてあげたり、ご飯を作ってあげたり、もてなしたりするという習慣が文化としてありました。
そのため、知らない人の家に泊めてもらうことは、決して珍しいことではなかったのです。
キリストは、宣教に遣わされた先で、誰かのお世話になるようにと言われました。
しかも、毎日、違う家に泊まるのではなくて、最初どこかの家に入ったら、その家に留まりなさいと言われたのです。
このように、キリストは宣教に遣わす弟子たちに対して、持ち物と宿泊について命じました。
人々と関わるために
なぜ、キリストはこのようなことを要求したのでしょうか?
この箇所から「宣教に遣わされる人は、貧しく暮らすべきだ」と考えられることがあります。
宣教師や牧師たちは、裕福に暮らすのは罪であり、最低限、必要なもので生活するべきだと。
しかし、私は、キリストが言いたかったことはそういうことではなかったと思います。
もう一度、キリストが弟子たちに与えてくださったものを整理して見てみましょう。
キリストが持っていくことを許したのは、1本の杖と履物だけでした。
これは、移動するために必要なものだが、移動するのは何のためかというと、誰かと出会うためです。
人との出会い、関わりなくして、宣教することはできないでしょう。
宣教というのは人と関わる中で、キリストの愛が伝えられていくことから始まるからです。
そのためには、接点が必要であり、どこかで人が来るのを待っているだけでは、難しいわけです。
だから多くの教会では、人と出会うためにいろんな形で宣教がなされています。
英語教室や料理教室をやったり、スポーツをやったり、ゴスペルライブをやったり、いろんな形があります。
今の時代であれば、インターネット上でそういう関わりをしている牧師や宣教師もいます。
私たちの教会では、韓国語教室をやったり、ゴスペルのライブをやったりしていますが、今、カフェのためにリフォームをしているように、カフェを通して、宣教の働きをしていこうとしています。
いろんな方々と出会うために、奄美で大人気のサンドイッチも準備して、場所も綺麗に整えて、人々を迎えようとしているところです。
このように、宣教というのは人と人が出会うところから始まって行きます。
宣教において決定的に重要なこと
キリストは杖と靴を持っていくことは許したが、実は、それ以外にも、もう1つ弟子たちがが与えられたものがあります。
7節の終わりのところに「その際、汚れた霊に対する権能を授け」とあるように、キリストは弟子たちに「汚れた霊に対する権能」を与えてくださいました。
汚れた霊に対する権能というのは、聖霊の力、聖霊の働きのことでしょう。
もちろん、誰かと出会い、関わることは重要なことですが、だからと言って、出会う人々が増えれば、それに比例して、救われる人も増えるわけではありません。
宣教において決定的に重要なことは、神様がそこで働いてくださることです。
人がキリストを主として信じ、告白することができるのは、聖霊によってです。
人間には、人の心を変えたり、人を救ったりする力はありません。
私たちができることは、誰かと出会い、イエス様の愛を持って関わり続けるところまでです。
人がイエスをメシアとして受け入れて、神様の子供として生きて行きたいという心を与えてくださるのは、神様です。
救いに関しては、神様のフィールドであり、神様の責任なのです。
神様ができることと、私たちができることには違いがあります。
人と関わり続けながら、救いを祈っていくことが、私たちに任されていることなのです。
対等な関係の中で
そして、もう1つ、キリストが求めたことは、一つの家に留まりなさいということです。
これは、杖と履物だけを持っていくように言われたこととも重なる部分がありますが、キリストは弟子たちに誰かにお世話をしてもらうように言われました。
誰かに食べさせてもらい、泊まらせてもらい、助けてもらいなさい、と。
この箇所から、宣教者は受けるべきに値する人である、宣教者を支援すべきであると考えられることがあります。
しかし、キリストが言いたかったことは本当にそういうことだったのでしょうか?
単に、受けるに値するべきであれば、一つの家に留まる必要はありません。
キリストは、なるべく一つの家に留まるように言われたのです。
一つの家にお世話になるとしたら、へりくだらなければなりません。
上から目線では、お世話になり続けることはできません。
つまり、キリストは弟子たちに与える者となることだけではなく、受ける者となることを求めたのです。
「与える者になる前に、受ける者になりなさい」ということでしょう。
宣教に行く者の心には、何かを与えたいという使命感がある。
私が宣教旅行に遣わされたところは、フィリピンのミンナダオ島にあるカガヤンという街でした。
ここ10年ほどで、フィリピンは急激な経済成長によって、格差が広がっている地域の一つです。
私が行ったところは、ゴミ捨て場のゴミを拾って、それをお金に変えて生活しているスラム街や、山の中にあるイスラム教徒が集まる小さな村でした。
特に貧しい地域に行くということもあって、子供たちにはプレゼントをあげたり、イスラムの村では学校の校舎の修理をしたり、運動会を準備してやったり、何かためになることをしたい、何かをしてあげたいという思いで行きました。
そういう時に、私たちは与える者として行きます。
こちらは与える者であり、向こうは受ける者というような感覚があります。
宣教者が陥りやすい罠は、宣教地に対して上から目線になり、与えてあげる、教えてあげる、仕えてあげるみたいな姿勢になることです。
そのように、宣教に遣わされる者が、強い者として、多くを持つ者として何かを与えてあげる、やってあげるという姿勢は、宣教の働きにおいては相応しくないと、キリストは考えておられたのではないでしょうか。
誰かに与えてもらったり、お世話をしてもらったり、受ける者になるためには、むしろもっと相手に仕える姿勢が求められるでしょう。
宣教は、人間と人間という対等な関係においてこそ、伝わることがあるのだと思います。
その関係の中に、イエス様も共にいてくださり、聖霊が働かれることで、神様の宣教はなされていくのです。