安息日の起源
今日のテーマは「安息日」です。
安息日という言葉は、主にユダヤ教とキリスト教が使っている言葉です。
ユダヤ教徒やクリスチャンは、安息日には礼拝を捧げます。
私たちが安息日と聞くと、礼拝のことを思い浮かべると思いますが、実は、もともとの安息日という言葉には、礼拝という意味はありません。
安息日は英語で「サバス」と言いますが、サバスという言葉はヘブライ語の「シャバット」から来ています。
シャバットの意味は「休む」とか「ストップする」ということです。
つまり「休む、ストップする」というのが、聖書における安息の本来の意味です。
それでは、安息日には何をストップするのでしょうか?
神様は、天地創造において、六日間の創造の後、第七の日に創造の仕事を離れ、安息しました。
創造の仕事をストップしたということです。
こうして、一週間の中で、最後の七日目は安息日となりました。
神様は、モーセの時代、イスラエルの民に対して、一週間のうち第七の日を安息日にするように教えました。
十戒と言われる律法の中に、安息に関する教えがあります。
神様は七日目に仕事をストップして、安息したように、イスラエルの民は神様と同じように、安息日にはそれまでやっていた仕事をストップしなければなりませんでした。
そこで問題となったことは、何が仕事なのかいうことです。
安息日を守るために、どこからが仕事で、どこからが仕事ではないのか、決める必要が出てきました。
それで、ユダヤ人たちは、律法に基づいてさらに細かい決まりを作りました。
それが「言い伝え」として、ユダヤ社会で受け継がれていきました。
言い伝えは、律法を守るために設けられた柵みたいなもので、ユダヤでは律法と同じレベルで、厳しく守られました。
安息日論争
今日分かち合う聖書の言葉は、この安息日の律法に関して、ファリサイ派の人々がイエス様を攻撃している場面です。
2章と3章に安息日に関する2つの話が書かれています。
1つ目は、弟子たちが安息日に麦の穂を取ったという話です。
ファリサイ派の人々は、イエス様の弟子たちが安息日に、麦畑にある麦の穂を取ったことを見ながら、それは律法に反することだと、イエス様を攻撃しました。
この場面でファリサイ派が問題視したことは、他の人の畑から麦の穂を勝手に取ってしまったことではありません。
律法(申命記23章)によると、誰か他の人の麦畑に入って、麦の穂を手で取ることは許されていました。
旅行者や貧しい人がどうしてもどうしてもお腹が空いて、すぐに食べ物を手に入れることができない時、人の畑のものであっても、少しだけ取って食べることは許されていました。
ただし、鎌を使って麦を刈り取ることは、盗みとみなされるためダメでした。
ここでファリサイ派の人々が問題視したのは、キリストの弟子たちが安息日に麦の穂を取ったことです。
これは、ユダヤの言い伝えによると「刈り入れ」という仕事にあたる行為で、安息日にはしてはならないことでした。
それでファリサイ派の人々は、安息日に仕事をして、律法を犯していると、キリストを攻撃しました。
また、3章にもう1つの話が書かれています。
ある安息日に、会堂に片手が麻痺している人がやってきました。
キリストはその人のことを憐れんで、その場で手を癒してくださいました。
ユダヤの言い伝えによると、安息日に医療行為をすることは禁止されていました。
安息日でも治療ができるのは、命が危険な時だけでした。
ただ、手が麻痺しているというのは、今すぐ命に関わることではありませんでした。
そのため、ファリサイ派の人々は、キリストがしたことは律法違反であるとみなしたのです。
イスラエルの民にとっての安息
キリストは、このようなファリサイ派の人々の言動に対して、反論しました。
キリストは「そもそも安息日は何のためにあるのか」と問いかけました。
何のための安息日なのか、誰のための安息日なのか、と。
なぜ神様は安息日には仕事をストップしなければならないと命じたのでしょうか?
神様が一週間のうちに安息日という日を作った目的は何だったのでしょうか?
神様が安息日を守るように命じられた理由は、かつてエジプトの国で奴隷であったイスラエルの民が、神様によって救われたことを思い起こすためでした。
このように、神様はイスラエルの民に、安息日になったらそれまでの仕事を一旦ストップして、彼らを救った神様を思い起こすようにされたのです。
主を思い起こす時
こういうことを踏まえて、今の私たちにとって安息日とは何なのか、考えてみたいと思います。
神様が仕事を離れて安息したのは、七日目でした。
これは曜日で言うと、土曜日です。
それでイスラエルの民も現代のユダヤ教徒も、土曜日を安息日として守ってきました。
ユダヤ教徒は、安息日になると仕事を離れて、家で礼拝の時を持ったり、家族で一緒に時間を過ごしたりします。
でも、クリスチャンは土曜日ではなく、日曜日に一緒に集まり、礼拝を捧げています。
そうなったのは、キリストの復活が日曜日だったり、聖霊が注がれたのが日曜日だったり、ローマがキリスト教を国教化した時、もともと特別視されていた日曜日に礼拝を捧げるようにしたりと、いくつかの理由があるようです。
ただ、安息することにおいて大切なことは、何曜日かということではありません。
キリストが十字架においてすべての律法を完成してくださっているので、私たちは律法のもとにはいません。
神様が安息日を定めたとき、イスラエルの民に求めたことは、単に絶対に仕事をしないことではありません。
神様はイスラエルの民に対して、仕事をストップして、あなたたちを救われた神様を思い起こしなさいと言われました。
私たちも今、神様を思い起こすために、一緒に集まっています。
一緒に賛美し、祈り、このように礼拝を捧げているのは、私たちを救われた神様を思い起こすためです。
これは神様がエゼキエルという預言者を通して、イスラエルの民に語った言葉です。
安息日は、神様とイスラエルの民との間のしるしでした。
神様が主であることを表すしるしです。
私たちは一週間の中で、学生であれば勉強を、社会人であれば仕事をしますが、それをストップするのは、人生の主人が誰であるのかを確認するためです。
私たちを造り、私たちを救ってくださって、導いてくださっている神様を思い起こすためなのです。