牧師ブログ

「負債者として生きる」

【ローマの信徒への手紙8:12-17】

12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

私たちは負債者です

私はなるべく債務者にはならないように生きています。
家や車など高価なものを購入する時、多くの人はローンを組んで、何年かかけて支払いをします。
でも、私はそれがちょっとできません。

そもそも、家や車を買うお金がないこともありますが…
負債を負うということに何か怖さがあります。

そう思うようになった大きな要因は、私が大学時代に読んだある本の影響かもしれません。
当時、株式のゼミに入っていましたが、ゼミの先生に勧められて「金持ち父さん、貧乏父さん」という本を読みました。
お金についての本ですが、著者はローンを組んで家や車を買った場合、それは資産ではなく、負債であり「負債ではなく、資産を持ちましょう」と言っていた言葉が、今もけっこう頭に残っています。

ただ、先ほど読んだ御言葉によると、どうやらクリスチャンは負債者らしいのです。
12節の初めに「わたしたちには一つの義務があります」とありますが、この箇所を元々書かれたギリシア語で見てみると「私たちは負債者である」となっています。

聖書は、キリストを信じる者は負債を負っていると言っているのです。
負債者にはなりたくなかったのに、いつの間にか私は負債者になっていました…。

私たちがこれまで聖書から聞いてきたことは、クリスチャンは、すべての負債がなくなったということだったと思います。
キリストが十字架の上で私たちのすべての罪、重荷、負債を背負って死んでくださいました。
それによって、私たちの負債はすべてなくなった、と。

しかし、パウロは「私たちは負債者だ」と言っています。
私たちはどのような負債を負っているのでしょうか?

人間らしく生きられなくするもの

今日分かち合う御言葉は、使徒パウロが、ローマにいるクリスチャンに宛てて書いた手紙です。
12節を見ると、パウロはこの負債について「それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではない」と言っています。

ここに出てくる「肉」というのは「欲望」のことではなく「生まれながらの私」のことでしょう。
キリストを知る前の私のことです。
神様のことを知らずに、ただ自分なりに生きている私、簡単に言えば「罪人としての私」のことです。

パウロは、罪というものがどれだけ人間に影響を与えているのか、罪の恐ろしさをよく知っていた人です。
パウロ自身、クリスチャンになる前は、クリスチャンを敵とみなし、迫害の先頭に立っていいました。

それが正義だと思って、神様に従うことだと思ってやっていたことが、まさか、神様に反逆することだったのです。
そういう昔の自分を知っていることもあって、パウロは罪の恐ろしさをよく知っていたでしょう。

13節に「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」とあるように、人間は「生まれながらの私」、「罪人としての私」に従って生きるなら、死んでしまいます。
死んでしまうというのは、心臓が止まるということではなくて、霊的に死ぬということです。

霊的に死ぬというのは、本来、人間が作られた目的には生きられないということです。
人間らしく生きられなくなってしまいます。

それでは、クリスチャンは何に従って生きるべきでしょうか?
私たちが負っている負債とは何のことでしょうか?

霊によって生きる

パウロは「肉に従うのではない」という話をした後に、霊の話をし始めます。

1「しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(13節)

パウロは、クリスチャンは肉ではなく霊に対する義務があると言います。
肉(罪人である私)に従うのではなく、神の霊(聖霊)に導かれて生きるのが、神の子であると。
つまり、クリスチャンが負っている負債というのは「霊に従い、霊に導かれて生きること」です。

罪という負債は全て、すでにキリストが十字架の上で背負ってくださったので、私たちは罪に対して、何か代価を払う必要は無くなりました。
私たちは、完全に赦されました。

でも、赦された私たちが背負うべき負債があるとパウロは言います。
それが、霊に従って生きることなのです。

「すべて赦されたから、もう何でもやりたい放題、自分の好きなように生きなさい。あなたたちは自由だ!」というのが、キリストの十字架のメッセージではありません。
「罪という負債はすべてキリストが背負ってくださった。だから、これからは罪ではなく、霊に従って生きなさい。あなたたちは罪から自由にされた!」というのが、十字架のメッセージです。
単に私たちを自由にするということではなく、罪から自由にするのがキリストの十字架です。

キリストの十字架は、罪人である自分に従って生きていく生き方を終わらせてくださいました。
もう自分の努力と頑張りだけで生きていく必要はなくなりました。
聖霊に導かれるという新しい生き方へと導かれるのです。

神様の養子になる

それでは、聖霊に導かれる生き方とはどのようなものでしょうか?
神様の霊が与えられると、私たちの中でまず変えられるものがあります。
それは、私たちの身分です。

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(15節)

「神の子とする霊を受けたのです」とあるように、聖霊が与えられることによって、私たちは神の子とされます。
キリストを信じ、聖霊が与えられたからといって、急に品性や生き方が変わるのではありません。
もちろん、聖霊よって少しずつキリストの姿に変えられていきますが、まず変わるのは私たちの身分です。
「罪人」から「神の子」へと変えられるのです。

ここにある「神の子とする」という言葉は、直訳すると「養子にする」という意味の言葉です。
聖霊は私たちを神様の養子にしてくれます。

神様の養子と言われると「本当の子どもじゃないのか」と微妙に思うかもしれませんが、養子の意味を知ると、神様が私たちに与えてくださっている恵みがよくわかります。

養子というのは、里親(foster parents)がいて初めて成り立ちます。
里親が、ある子供を養子として受け入れて初めて、その子供は養子になります。

養子縁組において、養子になるかどうかは、養子本人が決めることではないということです。
養子を受け入れるのは、里親であって、養子本人は養子として受け入れられるだけです。

これと同じように、私たちが神様の子供とされるのは、私自身が決めることではありません。
私が神様の子供になりたいと思うから、そうなれるわけではなく、神様が私たちを神様の子供として受け入れてくださって初めて、私たちは神様の子供とされるのです。

だから、神様の子供とされるのに、自分が養子としてふさわしいのかどうか、神様の子供としてふさわしいのかどうかは関係ありません。
決定権は神様にあるからです。
受け入れるかどうかは、神様が決めます。

神様はすでに、私たちを神様の子供として受け入れることを決定してくださっています。
その証しに、2000年前にキリストが人間として生まれ、その後、天から聖霊を注いでくださいました。
聖霊が私たちのことを証ししてくださるのです。

アッバ、父よ

最後に、私たちが神様の子供とされるということについて話したいと思います。
ある夫婦に実の子供がいても、さらに里親となって、養子を受け入れるという家庭もあります。
その場合、実子でも、養子でも、親にとっては法的に同じ子供です。

当時のローマの場合も、一度、子供が養子に出されると、もともといた家の子供としての権利は無くなりました。
その代わりに、新しく養子として迎え入れられた家の権利に与ることができるようになります。

そのため、新しい親に養子として受け入れられると、たとえ、新しい家に親と血が繋がっている子供がいたとしても、親との関係においては、全く同じ立場になります。

本当は父なる神様にとって、実の子というのはイエスです。
ただ、私たちが神様の養子とされるということは、私たちも神様との関係においては、イエスと全く同じ立場になるということです。

だから、私たちは、父なる神様のことを「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。
本文の15節の後半に「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。

「アッバ」というのは、当時、ユダヤで話されていたアラム語という言語で「お父さん」という意味の言葉です。
子供はお父さんのことを親しみを込めて「アッバ」と呼びました。

キリストも、父なる神様に祈りを捧げる時によく「アッバ、父よ」と呼びかけました。
キリストが神様に「アッバ」と言ったように、神の子とされた私たちも、同じように神様に「アッバ」と呼びかけることができます。

私たちはもはや、神様に受け入れられるにふさわしい子供となるために、頑張って努力する必要はありません。
神様はすでに、私たちのことを養子として受け入れてくださっています。

聖霊に導かれて生きる生き方というのは、神様の子供として、神様をパパと呼びながら生きていくことです。
神様と私たちの親しい関係を築いてくれるのが、聖霊です。
聖霊に導かれて生きてものがクリスチャンであり、私たちが負っている負債なのです。