愛の不一致
皆さんは、どんな時に愛を感じるでしょうか?
神様の愛でも、家族や友達からの愛でも何でもいいですが、最近、どんなことに愛を感じたでしょうか?
「愛する」ということにおいて、難しいことの一つは、自分は愛のつもりでやったことが、相手には愛として受け取ってもらえないことがある、ということです。
たとえば、明日はホワイトデーですが、私がスイーツを手作りして妻にプレゼントしたとします。
私としては、愛情を込めて、労力をかけて作ったとしても、それを受け取った妻からは、もしかしたら「お店の美味しいものが食べたかった」と言われるかもしれません。
言葉で言わなかったとしても「そういうことじゃないんだけど」と心の中で思うかもしれなません。
また、先週韓国に行ってきたが、韓国人は普段の関わりの中でよくスキンシップをします。
欧米でも、挨拶でハグするのは普通ですが、日本人は、そういうスキンシップに慣れていません。
そのため、愛のつもりでハグしたり、肩を組んだりしても、戸惑われることもあるでしょう。
そういうギャップが生まれる理由は、それは人によって愛の感じ方が違うからです。
愛の感度が違うのです。
ある人は、スキンシップをするときにもっと深い愛を感じることがあり、ある人は、ただ時間を一緒に過ごしてくれることに、深い愛を感じることもあります。
また、ある人は、プレゼントをもらうことに愛を感じるでしょうし、あるいは「ありがとう」とか「助かったよ」とか、そういう優しい言葉をかけられることに、もっと大きな愛を感じる人もいます。
このように、愛というのは、受け取った人が愛として感じる時に、初めて愛になるのです。
そのためには、愛というのはまず表現されなければなりません。
この世界の現実
それでは、神様は私たちに対して、どのように愛を伝えているでしょうか?
神様はどのように愛を表現されたでしょうか?
今日分かち合う御言葉の中で、特に3:16は、多くの人に愛されている御言葉の1つだと思います。
この御言葉を暗唱している人も少なくないでしょう。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とあるように、神様の愛というのは、独り子であるイエス・キリストを通して、表されました。
よく「神様の愛がよくわからない」とか「キリストが十字架にかかったという話を聞いても、自分と何の関係があるかわからない」ということを聞くことがあります。
神様の愛はキリストを通して表現されたので、キリストのことがわからないと、神様の愛もよくわからないのです。
神様がキリストを遣わした「世」というのはどのようなところでしょうか?
「世」というのはこの世界のことですが「神様がこの世界を愛された」という言葉が意味することは、神様が創造した世界を愛されたということです。
この世界を造ったのは主なる神様であり、神様はこの世界を非常に良いものとして造られました。
創世記の1章に、創造物語が書かれていますが、その中に「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が繰り返し出てきます。
神様は6日間をかけて、太陽や月、海や陸、動物や植物を造られましたが、その日の創造の働きが終わるたびに、神様はすべてのものを見て「良しとされた」とあります。
特に6日目に人間を創造し、すべての創造を終えた後、神様が造った世界について「極めて良かった」と書かれています。
このように、この世というのは、とても良い世界として神様によって造られたゆえに、世界丸ごとが神様の愛の対象なのです。
しかし、今、私たちの目に映る世界は、素晴らしいところだけではありません。
実際に、この世界には良いことだけが起こっているわけではありません。
特に、人間の罪のゆえに、多くの悲劇が起こっているのがこの世界の現実であり、この世界は痛みや悲しみが絶えない世界だと言えます。
神様がキリストを遣わした「世」は、この世界は神様によって素晴らしいものとして造られましたが、そこでは神様に背を向けて、神様から離れた人間による悲劇が起こっているわけです。
すべて織り込み済み
神様に背を向けた世界というのは、神様を見失ってしまった世界だと言えます。
私には今、2人の娘がいますが、子供と関わる中で、父親として一番辛いのはどんな時でしょうか?
子供が反発したり、自分の言うことを聞かないことではありません。
子供たちが妻の実家に帰った時によく起こることですが、奄美の生活が楽しくて、自分のことを忘れられるとき、もっと悲しい気持ちになります。
TV電話をしても、ネットフリックスのアニメが楽しくて、全然反応してくれないと、なんとも言えない気持ちになります。
完全に父親を見失っているわけです。
まさに、それがこの世界でも起こっています。
この世界は、世界を創造した神様のことを完全に見失ってしまっているのです。
しかし、神様が愛されたのは、そういう世界です。
神様は、自分のことを無視し、自分に背を向ける世界を愛されたのです。
神様にとって、私たち人間がどうでもいい存在であるながら、私たちが神様を無視したとしても、何をしても関係ありません。
「人間とはもう関わるのはやめにした」と言って、すべてを終わりにすればいいのです。
しかし、神様にとって私たち人間はそういう存在ではありません。
神様はどうにかして、私たちとの崩れてしまった関係を修復したいと願われたのです。
そのために、神様はこの世に独り子であるキリストを与えられました。
独り子という存在には、神様の愛がどれだけ本気であるのかが表されています。
キリストが天から来られ、私たち人間と同じ姿になられたのは、私たちの罪を負うためでした。
しかし、この世界はそれでもキリストのことを拒みました。
最後には「十字架につけろ」と指を刺され、どうにかして関係を回復したいと願われた人間から、殺されてしまったのです。
私だったら、その時点で「ああ、もういい」「もうこれは無理だ」と人間と関わり続けることを諦めると思います。
しかし、キリストはそういうこともすべて織り込み済みだったのです。
人間がそういう存在だということを、わかってこの世に来てくださったのです。
キリストという存在が表していることは、神様に背いてばかりいる私たちのことを、神様は憎んではいないということです。
神様に背き続けてきたとしても、私たちを決して見捨てようとはしていないということです。
神様はどこまでも、罪深い私たちの罪を赦して、私たちと共に生きることをすでに選んでくださったです。
神様はその愛をはっきりと表現するために、独り子であるキリストをこの世に送られました。
憎しみや怒りを超えた愛
このように、すでに、神様の愛はキリストを通して明らかにされていますが、しかし、愛というのは、一方通行では成り立ちません。
愛というのは、それが相手に受け取られて初めて愛になるからです。
今日の御言葉の中で「信じる」という言葉が何度も出てきます。
そうです、私たちは信じることによって、神様の愛を感じ、受け取ることができるのです。
神様を信じるというのは、私たちが神様を受け入れるということとは少し異なります。
私たちが神様を受け入れるのではなくて、神様が私たちをすでに受け入れてくださっていることを信じることです。
私たちが誰かを赦して、関係を回復したいと願う時に「もし、相手が謝ってくれたなら赦すけど、そうでなければ赦さない」という態度を取ることがあります。
ある意味で、これが人間の限界です。
私たちは、なかなかただで赦すことはできません。
まず、相手がどう感じているか、何をしてくれるかによって、自分の態度が決まるのです。
しかし、神様は違います。
神様がこの世界を創造した後、人間が神様から離れて行ったとしても、この世界のことを諦めませんでした。
旧約聖書に記されているのは、神様を見失った世界に対して、神様が関わり続ける歴史です。
そのように、神様は私たちの人生に何があったとしても、私たちのことを諦めることはありません。
なぜなら、すでに私たちのことを受け入れてくださっているからです。
神様を信じる人生には、ゲームオーバーはないのです。