やがて来られるキリスト
マタイによる福音書の24、25章は、キリストが世の終わりについて語っている言葉が記されており、今日分かち合う箇所は、その場面の最後の言葉です。
世の終わりについて、キリストが最後に語られたことは、キリストの再臨とその時に起こる最後の審判の話です。
再臨したキリストは、栄光の座に着きます。
これは、キリストが人々を裁く王として来られるということです。
そして、人々はみなキリストの前に集められ、羊飼いが羊と山羊を分けるように、キリストによって右と左に分けられます。
それまでは一緒に暮らしていた羊と山羊は、最後はふたつにはっきりと分けられるのです。
これが、最後の審判と言われるものです。
それでは、王であるキリストが裁きを行うとき、人々はどのようにして二つに分けられるのでしょうか?
王は右側に置かれた羊のことを「わたしの父に祝福された人たち」と祝福の言葉をかけながら、飢えていたときに食べさせてくれたこと、病気の時に見舞ってくれたことなど、羊たちに感謝と労いの言葉をかけています。
王の言葉を聞いた羊たちは、自分たちはいつそんなことをしたのかと首を傾げますが、これに対して王は「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と返しました。
ここで「わたしの兄弟であるこの最も小さな者」というのが誰を指しているのか分かりづらいですが、これは特定の民族を言っているのではなく、おそらくユダヤ社会で小さな者として蔑まれていた女性や子供、罪人たちのことを指していると考えられます。
もっと広く言えば、隣人たちのことです。
その後、王は左側にいる人たちに言います。
王は彼らを「呪われた者ども」という過激な言葉を使いながら、「永遠の火に入れ」と裁きを宣告します。
そして、飢えていたときに食べさせれくれなかったこと、病気の時に尋ねてくれなかったことなど、彼らの態度について言及します。
これを聞いた人々は、自分たちはいつも助けてきたと反論しますが、王は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言って、彼らの言葉を退けます。
そして最後、46節でこの話の結論として、キリストはこう言われました。
「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
社会的弱者である人々を助けた人々は永遠の命にあずかりますが、そうでなかった人々は永遠の罰を受けるというのです。
裁きの真実
これが、キリストが語られた再臨の時に起こる裁きの話です。
こういう話を聞いてみ、皆さんは率直にどのように感じたでしょうか?
キリストは永遠の命にあずかることができる人々のことを「正しい人たち」だと言っています。
ここでいう正しい人たちというのは、周りの人々に関心をもって、困っている時に助けてきたかというようなことです。
愛の行いをしてきたのか、隣人に仕えてきたのかが問われているのです。
そう言われると、自信を持って自分が永遠の命にあずかっていると言うことを憚れるような気がしてきます。
そもそも正しい人なんて存在するのでしょうか?
そうだとすれば、みんな永遠の罰を受けなければならないのでしょうか?
キリストがこの地に再臨して、裁きを行うとき、誰が永遠の命にあずかることができるのでしょうか?
「皆さん、残念でした!」というのがこのメッセージの結論なんでしょうか?
しかし、永遠の命を得るための条件が「愛の行い」だとしたら、それは聖書のメッセージと反する教えです。
私たちは救いはただ恵みによって与えられるということとどのように整合性を取ったらよいのでしょうか?
聖書は確かに世の終わりがあること、そしてその時に、最終的な裁きが下されることを伝えています。
ただ、私たちが将来起こる裁きという出来事について考えを巡らせるときに、一つ大切な視点と見方があります。
世の終わりに裁きがあるということは、少し言い方を変えると、世の終わりになるまで裁きはないということになります。
つまり、裁きはキリストが再臨される時まで、保留されているということです。
お父さんを殺された子鬼
このことから、私たちが心に留めるべきことがあります。
それは、今、私たちが生きるこの世界で、多くの裁きが行われているということです。
誰が正しい人であるのかを判断して、裁きを与えるのは、キリストであるにもかかわらず、私たち人間が善悪を判断し、裁きを下している現実があります。
その典型が戦争です。
ロシアとウクライナの戦争はもうすぐ2年になろうとしていますし、イスラエルとパレスチナのハマスとの戦いも、激しくなっていっています。
病院が攻撃され、多くの民間人が犠牲になっています。
ロシアとウクライナで言えば、多くの人はロシアが間違っていて、ウクライナは悪くないと考えていると思います。
イスラエルとハマスで言えば、ハマスが間違っていて、イスラエルが正しいと考える人が多いと思います。
それぞれに戦争を正当化する言い分があるわけですが、だからと言って、悪者とされているロシアやパレスチナの人々が殺され、多くの犠牲が生じていることは、神様が望んでいることではないはずです。
日本の昔話で桃太郎があります。
桃太郎が鬼を退治するために、犬、猿、きじを連れて、鬼ヶ島に行って鬼をやっつけるというストーリーです。
多くの人は桃太郎が正しくて、鬼が悪いと自然に考えていると思います。
10年ほど前に行われたある新聞の広告コンテストで、桃太郎を題材にした作品が最優秀賞を受賞しました。
その作品は「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」というものです。
桃太郎のことを正しいという視点で見れば、悪である鬼をやっつけたので、桃太郎は正義であり、勇気がある行動を取ったヒーローです。
しかし、殺された鬼の家族からしたらどうだったでしょうか?
大切なお父さんを殺した桃太郎は敵であり、悪です。
このことから考えたいことは、私たちの善悪の感覚というのは、視点によって変わってくるということです。
呪いの祈り?
創世記のはじめに、アダムとエバが神様から食べてはならないと禁じられていたのは、善悪を知る木の実でした。
それを食べたことによって、人間は神様から離れ、自分だけで善悪を判断して生きるようになりました。
もちろん、善悪を判断する力は、人間に与えられた力であり、考えることをやめるべきだということではありません。
そうではなく、人間が善悪を判断する際に、いつも正しく判断することはできないということを弁えておく必要があるということです。
「絶対」はないということです。
最近、私人逮捕系YouTuberが逮捕され始めています。
あの人は悪だと決めつけて、現行犯で逮捕するわけですが、自分たちは正義であり、正しいことをしていると思ってやっていたのが、反対に自分たちが逮捕されています。
正しいことの中にも悪があり、悪の中にも正しいことがあるのです。
だから、私たちは「お前は地獄に落ちて、永遠の罰を受けるべきだ」と、誰かを攻撃することは本来はできないのです。
これは神様が最後の最後に、裁きの場でなされることであり、私たち人間に任された領域を超えてはなりません。
神様に対して、怒りをぶつけながら、あの人に裁きが臨むようにと祈ることは信仰でしょうか、それとも不信仰なことでしょうか?
実は、そういう祈りは信仰の告白の祈りなのです。
なぜなら、自分でやり返したり、復讐したりするのではなく、神様に裁きを委ねる告白だからです。
私たちができることは、裁きは神様に委ねて、できるだけ愛をもって周りに仕えることです。
一人一人がどのように生きてきたかは、最後、キリストの前に立った時に完全に明らかにされます。
その時まで、私たちはただ、神様を信頼して生きることが、人間に与えられた分なのです。