牧師ブログ

「自分が絶対に正しい!?」

【マタイによる福音書22:34-46】

34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
38これが最も重要な第一の掟である。
39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
41ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
42「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
43イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
44『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
45このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
46これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。

聖書の民主化

10月31日と言うと、最近はハロウィーンの話題で持ちきりですが、プロテスタント教会にとっては宗教改革を記念する日です。

1517年の10月31日、マルティン・ルターは当時の教会や信仰のあり方を批判した「95箇条の論題」という文章を、ヴィッテンベルク教会の扉に張り付けました。
当時、絶対的な権力を持っていたローマ教皇や教会に対して、本当の権威は聖書にあると考え、聖書こそが信仰において最終的な権威であることを主張しました。
この時のルターの行動がきっかけとなり、後に宗教改革と言われる出来事が起こりました。

宗教改革の大きな意義の一つは、聖書の民主化が進んだことです。
一般民衆が直接、聖書を手に取り、神様の言葉に触れることができるようになりました。
聖書の民主化によって、教会や宗教指導者たちが主張する聖書の解釈が絶対ではなく、多くの解釈が生まれることになりました。
そのため、一枚岩であるカトリックに対して、今日に至るまでプロテスタントには多くの教派が生まれてきた歴史があります。

それぞれが聖書を読み、神様と向き合うことができるようになったことは素晴らしいことですが、その反面、あまりにも自由な聖書解釈によって聖書からずれていったり、自分の解釈を唯一絶対のものとして、他の解釈や理解を否定し、攻撃するようなことも起こりました。

それでは、今から2000年前のキリストの時代にはどうだったのでしょうか?
当時、聖書は手書きで書かれており、聖書自体が貴重なものだったため、ごく一部の人にしか聖書を手にすることはできませんでした。
その聖書を解釈していたのは、主にラビと言われる律法学者でした。

当時のユダヤ教では、聖書の中に613個の戒めがあると言われていました。
ユダヤ教徒の中でも、特に律法学者たちは、613個すべての戒めを大切なものとして守っていました。
彼らにとって、律法を守って生きることがイスラエルの民、神の民としてのアイデンティティだったのです。

ことごとく打ち砕かれる野望

律法を大切にしていた律法学者にとって、律法を軽んじるような言動を繰り返していたキリストは目の敵でした。
彼らはある時からキリストを殺そうと考えていましたが、今日分かち合う箇所は、それが決定的となった場面です。

ファリサイ派の人々はキリストを陥れるため、1人の律法の専門家をキリストのもとに遣わしました。
そして「律法の中でどの掟が最も重要であるか」を問いただしました。
ファリサイ派の狙いは、キリストがどう答えるかというよりも、正しく答えられるのかというところにありました。

この質問に対して、キリストは613個の戒めの中から「神である主を愛しなさい」、そして、また「隣人を自分のように愛しなさい」という2つの掟をあげました。
「主を愛しなさい」という戒めは申命記6:5に、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めはレビ記19:18にあります。

この2つの戒めを挙げながら、キリストは「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言いました。
これはつまり、聖書全体(当時の旧約聖書)はこの2つの戒めに基づいているということです。

この箇所を読みながら、普段とは違うところに目が留まりました。
それは、ファリサイ派の人々の心の機微です。

この箇所は、キリストが律法の専門家の質問に答えて、それで話が終わっています。
ということは、キリストが正しく答えたということでしょう。
事実、旧約聖書の律法は、キリストが言った通りに「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を大切なこととして教えています。

それで、キリストの答えを聞いた律法の専門家は、何も言い返すことができなかったのだと思います。
キリストは聖書について、律法についてよく知っていましたが、同じようにファリサイ派の人々も律法に精通しており、キリストが正しく答えたことを認めざるを得なかったのでしょう。

ここでのポイントは、キリストが律法に関する質問に正しく答えたことによって、ファリサイ派の人々が追い込まれていったということです。
彼らは何をしても返り討ちに遭い、キリストを訴える口実を得る手段がなくなっていきました。

追い詰められていった顛末

この場面の後には、キリストがファリサイ派の人々に対して質問した話が書かれています。
その質問は「メシアのことをどう思うか、誰の子だろうか」というものです。
これに対して、ファリサイ派の人々は、聖書の記述を踏まえて「ダビデの子です」と答えました。

当時のユダヤ人は、メシアはダビデの子孫から出るということを信じていました。
確かにサムエル記の中に、そのような約束の言葉があります。

ただ、キリストはこれに対して、旧約聖書の詩篇110編を引用しながら「ダビデがメシアのことを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか?」と聞き返しました。
ファリサイ派が認識していたように、聖書には「メシアはダビデの子孫から生まれる」という約束がありましたが、キリストが言うように、ダビデはメシアのことを「わたしの主」と呼んでいる箇所がありました。
このことを踏まえて、キリストはこの2つの事柄はどのように両立しうるのかと問いかけました。
じゃあ、メシアは何者なのか、と。

これに対して、ファリサイ派の人々はもはや誰も、キリストに言い返すことはできませんでした。
そして、この日からは、キリストを試したり、罠にかけたりするために、質問をする者はいなくなりました。
これはつまり、キリストとの論争を通して、訴える口実を得ることを諦めたということです。

それまでは、なんとか言葉じりでも捉えて、逮捕する正当な理由を得ようと奔走していましたが、もはやそれが難しいことを悟ったということです。
これによって、無理矢理キリストを逮捕して、殺すという道に至っていくのです。
事実、次にファリサイ派や宗教指導者たちがキリストの前に現れるのは、キリストを捕まえる時です。

対話路線で

ここから考えたいことが2つあります。
それは「聖書を解釈する姿勢」と「正義は暴力に変わりうる」ということです。
ファリサイ派の人々は、聖書とそこに書かれている律法についてよく知っていましたが、聖書に書かれているメシアについては誤解していました。
まさか目の前にいる、ユダヤの伝統を脅かすイエスという輩が、彼らが待ち望んでいたメシアであるとは誰も知りませんでした。
後に、自分たちがメシアを十字架につけて殺したことを知った時、どれだけの衝撃だったでしょうか。

そうなっていった大きな理由の一つは「自分たちは絶対に正しい」という思い込みだったと思います。
キリストから何を言われたとしても、「自分たちは正しい」という思いが、自らを顧みる機会を奪っていたのです。
自分たちが絶対に正しいとすれば、キリストは絶対に正しくないことになります。

これまで宗教指導者たちは、自分たちの正しさを証明し、キリストを正当な方法で訴える口実を得るために努力してきました。
律法を守るという観点からも、暴力という手段に打って出ることはなく、ひたすら論争をしてきたのです。

しかし、彼らは話し合いによっては、キリストを捕まえることはできないことを悟りました。
それでとうとう、キリストを捕まえるために、実力行使に出たのです。
そして、キリストは不当な裁判にかけられ、十字架刑に処されることになります。

このように「自分は絶対に正しい」という思いは、人間を過激にしていきます。
暴力とは正反対のところにいた宗教指導者たちでさえも、最後の手段として暴力を正当化するようになるのです。

もちろん、私たちは自分が正しいと思うこと、これが真理だと信じているものがあってよいのです。
ただ、聖書解釈において、解釈するのが人間であることを踏まえれば、自分が絶対に正しいと主張することはできないのです。

誰でも過ちを犯しうる存在であることを受け入れ、どこまでも対話路線を取ることこそ、人間として相応しい姿なのではないでしょうか。