信仰的な葛藤
今日の聖書箇所は、引き続き、キリストがユダヤの宗教指導者たちと論争している場面です。
キリストは宗教指導者たちに対して、3つのたとえを用いながら、神の国について、彼らの救いを願いながらメッセージを語りました。
この時彼らは、どんな思いでキリストのメッセージを聞いていたでしょうか?
15節に「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」とあります。
宗教指導者たちは、キリストの話を聞きながら、ますますキリストへの憎しみと敵対心を膨らませていました。
それで彼らは、キリストを罠にかけるために、相談し、その結果、ファリサイ派の人々は自分の弟子たちをヘロデ派と言われるグループの人々と一緒にキリストのもとへと遣わすことにしました。
この時ファリサイ派が連れて行ったヘロデ派というグループは、普段は敵対する人々です。
ファリサイ派はあえて敵であるヘロデ派を選び、彼らと一緒にキリストを訪れました。
キリストを罠にかけるという目的のために、敵対する2つのグループがワンチームになったのです。
彼らはキリストに対して、こう投げかけました。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか?」
当時のユダヤは、ローマの支配下にあり、ローマという強大な権力のもとであらゆる形で虐げられていました。
その一つが人頭税と言われるもので、ユダヤの人々は大人1人につきデナリオン銀貨1枚をローマに納税する義務が課されていました。
この税金は特に貧しい人々にとっては経済的に大きな負担であり、ユダヤ人の反感を買っていましたが、そこにはもう一つ大きな問題がありました。
それは宗教上の問題、つまり、信仰の問題です。
納税に使うデナリオン銀貨には、当時のローマ皇帝であるティベリウスという人の顔が刻まれていました。
そこにはさらに「いと高き神の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」という言葉が刻まれていました。
この銀貨は、ローマ皇帝の政治的な権威と神的な権威の象徴でした。
そのため、ユダヤ人がデナリオン銀貨を使ってローマに税金を納めることには、信仰的な葛藤がつきまとったのです。
自分たちはローマ皇帝の政治的、神的な権威を認めなければならないのか、と。
キリストへの罠
多くのユダヤ人がローマの支配に苦しめられていましたが、その一方でローマに迎合する人々も少なからず存在していました。
その一つが、ヘロデ派と言われるグループです。
ローマの支配下となったユダヤの統治を任されていたのは、ヘロデ一家でした。
ヘロデ派は、そのヘロデ一家を支持するグループで、サドカイ派などと同じ親ローマ派でした。
このように、ローマに対する見方はユダヤの中でも分かれていて、ローマに肯定的な人々もいれば、否定的な人々もいました。
本来、ファリサイ派とヘロデ派は、ローマとの関係で言えば、敵対するグループですが、キリストを罠にかけて、殺すという目的において、一つのチームとなったのです。
考えが異なる2つのグループがタッグを組むことには、大きな意味がありました。
「皇帝に税金を納めるべきか」という質問に対して、もしキリストが「No」と言えばどうなるでしょうか?
当時、キリストはユダヤの中で多くの人々の支持を得ていましたが、その支持を失うことになります。
キリストがローマに味方するような言動をすれば、ローマによってあらゆる苦しみを受けていた多くの人々は反発し、そうすることによって、キリストを逮捕する空気を作ることができました。
その反対に、もしキリストが皇帝に税金を納めなくてもいいという旨の発言をすれば、どうなるでしょうか?
皇帝に税金を納めないことは、ローマへの反逆的態度です。
ヘロデ派の人々は親ローマ派であり、彼らはキリストの発言を直接聞いたものとして、キリストを反逆の罪で訴えることが可能となります。
ローマという国家権力のもとで、キリストを合法的に殺す道が開けます。
このように、ファリサイ派の人々は、キリストがどちらに答えたとしても逮捕できる口実を得るために、ヘロデ派の人々を一緒に連れていき、納税に関する質問をしたのです。
正義がぶつかり合う時
宗教指導者たちの目的は、キリストを罠にかけ、殺す方向に持っていくことでしたが、彼らは決してそれを悪いこととしてではなく、むしろ、良いこととしてやろうとしていたことに目を向ける必要があります。
ユダヤの伝統を守るため、神に従うこと、正義のための行動だったということです。
ユダヤの中でもファリサイ派というのは、律法に従う真面目で立派な存在として、社会から尊敬されていた人々ですが、彼らの中に人間の罪深さを見ることができます。
今、イスラエルとパレスチナのハマスの間で戦争のようなことが始まってしまいましたが、彼らはお互いに自分たちを守るため、正義の名の下で戦っています。
ほとんど全ての戦争は、そのように正義の名の下で行われます。
悪いことだと思ってやっているのではなく、お互いに真面目に、かつ真剣に、正義と正義がぶつかり合うのが戦争です。
だからこそ、一度始まった戦争は、なかなか終わらないのです。
そのように真面目さや真剣さ、正義の名の下に何かをやろうとする時に、人間は大きな間違いや過ちを犯す危険性があります。
正義という大義名分のもとで人を傷つけ、苦しみを与えることがあるということを、私たち人類は常に覚えておかなければならないと思います。
そういう人間の罪深さの中に、今、キリストは置かれています。
そんな中で、キリストは彼らの言動をどのように見ていたでしょうか?
キリストは、彼らの心の中にある悪意に気づいていました。
それで彼らのことを「偽善者たち」と言いながら、答えていきます。
キリストの答えは「皇帝のものは皇帝に返しなさい」というものでした。
つまり、ローマに対して課されている税金をちゃんと払いなさいということです。
神のものは神のものとして
この時キリストは、ローマ皇帝を神だと認めたり、この世の権威には絶対に逆らったりしてはならないという意味で、そう言ったわけではないでしょう。
キリストにとって、ローマに税金を納めることは、ローマの絶対的な権威を認める行為でも、神様の権威を失墜させる行為でもありませんでした。
納税に用いる通貨に誰の顔が刻まれているか、どんな言葉が刻まれているかは、別に重要な問題ではありませんでした。
キリストにとって本当の問題は、その後の言葉に表されています。
それが「神のものは神に返しなさい」ということです。
それでは「神のもの」とは何なのか、そしてそれを「神に返す」とはどういうことなのでしょうか?
デナリオン銀貨に皇帝の顔と神の子という言葉が刻まれていたことは、ローマ帝国に対する皇帝の権威と支配を表すものでした。
私たち人間は、神様に似せて、神様のかたちに造られていますが、そのように神のかたちが刻まれている私たちという存在は、この世界に対する神様の権威と支配を表しています。
つまり、私たちも、また、私たちが生きるこの世界もすべて神様のものだということです。
私たちの命、人生、あらゆる物質、世界そのものが神のものとして造られたのです。
しかし、人間はこの世界と私たち自身を神のものとして扱ってはいません。
人間はこれは自分のものであり、自分がゲットしたものだと、自分の所有物としてあらゆるものをみなしているのです。
それによって、この世界にはいろんな問題が起こっているのです。
人間が神のようになり、この世界を支配し始めることによって生じる大きな問題の一つは、人間がモノのように扱われるということです。
人間は、神様に似せて、神様のかたちに造られた尊い存在ですが、その尊厳が踏み躙られる大きな理由は、人間が神のようになり、人間を支配し、コントロールしようとするからです。
私たち人間も、そしてこの世界も、人間が自分勝手に扱っていいものとして造られたわけではありません。
「神のものを神に返す」ということは、全てのものが与えられたものであることを踏まえて、神のものとして扱うということです。
私たち人間においては、本来の主人である神様のもとに返し、神様のものとして生きるということです。
それが人間が人間らしく生きていくための唯一の道なのです。