「恐れてはならない」
今日の聖書箇所は、キリストが弟子たちを宣教に派遣するときに、弟子たちに向けて言われた言葉です。
マタイによる福音書の10章全体は、同じ場面を描いています。
まず、キリストが弟子の中から12人を選んで、彼らを呼び寄せるところから始まります。
キリストは呼び寄せた12人の弟子たちに、悪霊や病を癒す権威を与えました。
そして、彼らを実際に宣教に派遣するにあたって、いくつかのことを前もって教えられました。
そのうちの一つが、今日分かち合う「人々を恐れてはならない」から始まるところです。
この中で、キリストが何度も繰り返し言っているのが「恐れるな」ということです。
26節の「人々を恐れてはならない」から始まり、28節の「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」、そして、31節の「だから、恐れるな」です。
この時、キリストが具体的に何に対する恐れについて言っているのでしょうか?
この場面の直前を見ると、キリストは宣教に遣わされていった先で、弟子たちを攻撃したり、迫害したりする人々がいるということを語っています。
つまり、キリストが弟子たちに伝えていることは、自分たちを攻撃してくる人、迫害してくれる人を恐れてはならないということです。
ここでキリストが言っている「恐れてはならない」という言葉は「恐れることは不信仰だ」という意味ではなく、「恐れる必要はない」「恐れなくても大丈夫」ということでしょう。
私たちの日々の生活の中で、大きな恐れを感じる瞬間の一つが、誰かから攻撃を受けた時です。
中傷されたり、理由もなく責められたり、理不尽な苦しみを受けたりする時、私たちの心にはそういう人々に対する恐れや怒りが湧き上がってくるでしょう。
それでは、キリストはなぜそういう人々に対して、恐れる必要はないと言っているのでしょうか・
その根拠はどこにあるのでしょうか?
やがて完成する時が来る
ここでは3つのことが語られています。
1つ目は、26節です。
キリストは人々を恐れる必要はないその理由について、覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからだと言っています。
これは、人間の言動はすべて神様の前には明らかだということではなく、神様の関する話です。
これまで覆われていて、隠されていたものが明らかになった出来事について、聖書は記しています。
その出来事こそ、イエスがメシアとして来られたということです。
当時のユダヤで、人々はメシアという存在を待ち望んでいました。
メシアを送るというのは、旧約時代に預言者を通して、何度も語られていた神様の約束であり、その実現として、イエスは、人間としてユダヤ社会に誕生しました。
キリストが肉体をもって生まれたというこの出来事は、何を意味するのでしょうか?
それは、救いはすでに始まっているということです。
ただ、この時点ではまだ、メシアとして来られたイエスという存在は、人々には覆われていた、隠されていました。
弟子たちの中には、この方がメシアかもしれないと思って、キリストに従った者もいましたが、ユダヤの多くの人々には、まだ理解が追いつかないことでした。
そういう意味で、メシアは隠されていたのです。
このことは、キリストの誕生から2000年経った今でも続いていることです。
この世界を見れば、人間の罪によってあらゆる争いや悲劇が起こっています。
それに伴って、多くの痛みや悲しみ、嘆きが生まれているのが、この世界です。
すでに2000年前に、救い主であるキリストがこの地に来たのにも関わらず、豊かだと言われているこの日本であっても、生きづらさを感じている人々はたくさんいます。
クリスチャンであっても、そういう痛みや苦しみとは無関係でいることはできません。
この世界は、キリストが来られた世界であると同時に、痛みや苦しみを抱えた世界でもあるのです。
しかし、キリストは言われます。
やがて覆われているもの、隠されているものが、完全に明らかにされる時が来る、と。
これは、この世界が完全に神様によって救われる時が来るということです。
この救いはまだ完全ではなく、今はその途上にあります。
つまり、この世界は回復中なのです。
回復中であるこの世界は、やがて完成を迎えます。
それが、神様がキリストを送った世界に対する計画です。
復活の希望
人々を恐れなくても大丈夫である2つ目の理由について、28節で語られています。
キリストは弟子たちを攻撃し、迫害する人のことを「体は殺しても、魂を殺すことはできない者」だと言っています。
確かに人間は、人の命を奪うことはできますが、その人の存在そのものを消滅させることはできません。
それができるのは、唯一、人間を造った神様だけです。
このキリストの言葉が意味しているのは、人間は死では終わらないということです。
「魂も体も滅ぼすことができる方」である神様は、反対に言えば、魂も体も生かすことが方です。
時代や場所を超えて、すべての人に同じように与えられているものがあります。
それが、命を死です。
命をもって生まれた人は全員、いつか死を経験します。
ただ、どのような形で死を迎えたとしても、神様を信じる者はその体も魂も復活します。
この復活は、キリストの復活のように、新しい体を伴う復活であり、永遠に神様と生きていく希望です。
もし、この世界が破滅に向かっているとしたらどうでしょうか?
私たちは死んだ時点でそれですべて終わり、ゲームオーバーです。
しかし、この世界が救いの完成に向かっているとしたら、そこには復活の希望を見出すことができるのです。
雀よりもはるかにまさっている
最後に、3つ目の理由が29-31節で語られています。
当時、二羽の雀は1アサリオン、大体600円で売られていたそうです。
ということは一羽だと300円ということになりますが、その一羽さえも、父なる神様の許しがなければ、地に落ちることはないとキリストは言っています。
雀一羽が地に落ちて死んだとしても、ほとんどの人は気にも留めません。
なぜなら300円だからです。
雀は普通、誰にも知られることなく、死んでいきます。
しかし、それさえも、父なる神様の許しなしには起こらないとキリストは言います。
つまり、誰にも気にも留められることなく、孤独に死んでいくような存在であったとしても、父なる神様はそこに共におられるのです。
そうだとしたら、神様は私たちのことをどれほど大切に考えているでしょうか。
神様は私たちの髪の毛も一本残らず数えています。
私たちの中で、自分の髪の毛が何本あるのか把握している人はいないでしょう。
自分のことであったとしても、私たちはわからないことだらけです。
それは、私たちが造られた存在だからです。
しかし、私たちを造った神様はそうではありません。
神様は私たち以上に、私たちのことをよく知っておられます。
私たちのことを気にかけてくださり、私たちのことを大切に考えておられるのです。
だから「恐れる必要はないよ」とキリストは言っているのです。
人々の攻撃にさらされた時
このように、キリストはこれから宣教に遣わされる弟子たちに対して、人々を恐れる必要はないと語りました。
だから、キリストは27節で「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」と言われます。
これはつまり、福音を宣べ伝えなさいということです。
恐れることなく、神の国が近づいたとういことを人々に宣言しなさい、と。
実際にキリストが天に昇った後、聖霊を受けた使徒たちがどのように福音を伝えていったのでしょうか?
使徒言行録の4章を見ると、ペトロとヨハネが逮捕されて、議会で取調べを受ける場面があります。
2人は最終的に釈放されることになりますが、この出来事があった後の教会の姿に注目してみましょう。
取調べを受けた2人が釈放された後、教会は祈りを捧げました。
そこを見ると、教会は「攻撃を受けないように」とか「迫害から守られるように」とは祈りませんでした。
そうではなく「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と祈ったのです。
そうすると、そこにいた人々はみな聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出しました。
教会は人々からの攻撃や迫害に屈することなく、福音を語り続けました。
教会がそのようにできたのは、人々を恐れる必要はないことをよく知っていたからです。
死の先に復活があることを信じていたからです。
苦難の中にも、神様が共にいてくださることを信じていたからです。