牧師ブログ

「心が騒ぐ時に思い出したいこと」

【ヨハネによる福音書14:1-7】

1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

心が騒ぐとき

今日分かち合う箇所は、キリストが逮捕される直前に弟子たちに向けて語られた、いわゆる最後の晩餐の場面での一コマです。
キリストと12人の弟子たちは、最後の夜を共に過ごしましたが、この場面で弟子たちは、どういう心でキリストの言葉を聞いていたのでしょうか?

1節に「心を騒がせるな」というキリストの言葉があります。
キリストがそう言ったのは、この時、弟子たちの心が騒いでいることを感じ取っていたからでしょう。
弟子たちを不安にさせたのは、キリストが言った「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」という言葉でした。
弟子たちは、これからキリストが自分たちのもとを離れて、どこかに行ってしまうことに不安を感じ、心が騒いでいたのです。

ただ、この時心が騒いでいたのは、何も弟子たちだけではありませんでした。
実は、キリストも心を騒がせていたことが聖書に記録されています。

イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」(ヨハネによる福音書13:21)

キリストの心が騒いでいた理由は、いま一緒にいる弟子の中の1人が、自分のことを裏切ろうとしていたからでした。
キリストは、もうすぐ弟子のユダに裏切られること、ご自分の死が近づいていることを感じ取っていたようです。

キリストは、これから何が起こるのかをよく分かっていながらも、心が騒いでいました。
弟子たちは、これから何が起こるのかをよく分からなくて、心が騒いでいました。
何が起こるのか分かっていても分からなくても、人間の心は騒ぎますが、どちらにも共通していることは「これから先のこと」に心が騒いでいたという点です。

私たちも同じように、これからの未来や将来を考えるときに、心が騒ぐことがあります。
こういう感情を抱くことは、キリストでさえも心が騒ぐ瞬間があったように、人間としてごく自然な反応です。

そう考えると「心を騒がせるな」というキリストの言葉は「心を騒がせることは不信仰だ」ということではなく、「心を騒がせる必要はないよ」「心を騒がせなくても大丈夫だよ」という温かい励ましの言葉だったのだと思います。

キリストが見ていた父の家

それでは、心騒ぐ弟子たちを見ながら、キリストは何を伝えたのでしょうか?

2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

ここでキリストが話していることは「父の家」についてです。
父の家というのは、目には見えない世界である天のことです。

この時キリストは、この後、苦しみを受けて殺されることを知っていましたが、それが終わりではないこともご存知でした。
キリストはこれから父のいる天に帰るということを、はっきりと意識しておられました。

この最後の晩餐の場面が始まるとき、すでにキリストの心は天に向けられていました。

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り(ヨハネによる福音書13:3)

このようにキリストは十字架という苦難の先にある父の家を見ておられました。
この父の家にあなたがた(=弟子たち)を迎えると、キリストは言われました。

ただ、この時はまだ、弟子たちが住む場所はありませんでした。
だからこそ、キリストは「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われました。
つまり、キリストが十字架という苦難に向かって行ったのは、弟子たちを父の家に迎えるためだったのです。

道・真理・命であるキリストと共に

キリストが弟子たちのためにされたことは、私たちのためにもしてくださったことです。
キリストは私たちの罪を代わりに背負うことで、私たちのために場所を用意してくださいました。
私たちが父に迎えられることができるようにしてくださいました。

しかし、弟子たちがそうであったように、父の家にはじめから私たちの場所があったわけではありません。
キリストが用意してくださって初めて、私たちが行くことのできる場所が存在するのです。

私たちが父の家に迎えられるために、キリストは「道」となってくださいました。
6節に「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とあります。

キリストは私たちのために、単に道を示してくださったのではなく、道そのものです。
キリストは私たちのために、単に真理を明らかにしてくださったのではなく、真理そのものです。
キリストは私たちのために、単に命を与えてくださったのではなく、命そのものです。

この違いは「キリストについて知ること」と「キリストを知ること」を考えるとなんとなくわかってきます。
私たちは聖書やその他の書物を通して、キリストについて、また、キリストが明らかにした道や真理、命について知ることができます。

知識を獲得することが「キリストについて知ること」だとすれば、「キリストを知ること」とは、キリストとの交わりや関係の次元の話です。
キリストを知ることは、キリストを愛することであり、信頼することです。
もっと簡単に言えば、キリストと共に生きることです。

信仰というのは、聖書についてどれくらいの知識があるかによって決まるものではありません。
もちろん信仰には知性が伴いますが、それが決定的に重要なことではありません。

それ以上に大切なことは、全てはわからなくても、私たちの人生にはキリストが共にいて、キリストが支え、守り、導いてくださっているということです。
私たちが、これからの未来に不安を感じ、心が騒ぐ時、確かなことは、目には見えなくともキリストが今ここにいるということ、そして、いずれ天にある父の家でキリストと永遠に住まうことができるということです。