人間の本当の罪
ヨハネによる福音書の10章には、いわゆる「羊飼いのたとえ」が書かれています。
キリストはご自分を羊飼いに、人間を羊にたとえながら「わたしは良い羊飼いである」と言われました。
ヨハネはこの福音書の中で、キリストが直接語った言葉を多く記していますが、キリストの言葉を聞くときに留意すべき点の一つは、誰に向かって語っているかということです。
キリストは実に多くの人々ー弟子たち、不特定多数の群衆、特定の個人ーに語りましたが、今日の場面でキリストが語っている相手は、ファリサイ派と言われるグループの人々です。
聖書の中で、キリストがファリサイ派の人々に語っている内容を聞くと、厳しいことだらけです。
キリストは当時のユダヤで罪人と言われていた人々には優しく接していますが、どういうわけかファリサイ派の人々にはかなり当たりが強いように見えます。
私なりにその理由を考えてみましたが、そのヒントとなる言葉が本文にあります。
本文の9章41節を見ると、キリストはファリサイの人々に向かって「だから、あなたたちの罪は残る」と言っています。
これはすなわち「あなたたちは罪人だ」ということです。
おそらくキリストはファリサイ派の人々の中に「人間の本当の罪」を見ていたのではないかと思います。
そこにこそ、キリストの問題意識があったのではないでしょうか。
罪人を追放する社会
ファリサイ派の人々からしたら、自分たちを罪人だと考えたことは全くなかったでしょう。
むしろ反対に、自分たちこそ「律法に忠実な聖い人間だ」というプライドがありました。
しかし、キリストはこのファリサイ派の人々の中に、人間の罪を見ていました。
ファリサイ派の人々の中心には、いつも律法がありました。
律法というのは旧約時代、神様がモーセという人物を通してイスラエルの民に与えた教えです。
そのため、ファリサイ派にとって、律法を守るためにはそもそもユダヤ人でなければならず、ユダヤ人以外の人々を異邦人として扱い、彼らを罪人とみなしていました。
また、彼らは障害や病気のある人々に対しても、律法を基準にして、彼らのことを罪人だとみなしていました。
それを表す出来事が、ヨハネによる福音書の9章に出てきます。
そこには、キリストが生まれつき目の見えない人を癒すという出来事が書かれています。
それを知ったファリサイ派の人々は、どうやってそんなことが起こったのかと不思議に思い、癒された男に取り調べを敢行しました。
その中で、ファリサイ派の人々は、キリストと癒された男のことを罪人だと認定しています。
キリストについて、彼らが問題視したことは、キリストが男を癒したのが安息日だったという点です。
目を癒すという行為は医療行為にあたり、律法は安息日に仕事をすることを禁じていたため、彼らはキリストを律法を軽んじる罪人だと考えました。
また、取り調べの中でファリサイ派の人々は、目が開かれた男に対して「お前は全く罪の中に生まれた」と言っています。
彼らは男が目が見えない状態で生まれたのは、罪のせいだと考えていました。
「お前は全く罪の中に生まれた」というのは、すなわち「お前は完全な罪人だ」ということです。
ファリサイ派の人々は、罪人のことを低等な人間だと考えていました。
彼らは最終的に、癒された男のことを外に追い出しました。
外に追い出すというのは「もう家に帰れ」ということではなく「もうこの社会から出ていけ」という意味合いだったでしょう。
このように、ファリサイ派の人々は、罪人は社会から追放すべきだと考えていたのです。
事実、彼らはキリストを逮捕し、裁判で十字架刑を求めました。
良い羊飼い
ファリサイ派によって追放された男は、その後どうなったのでしょうか?
35節以降を見ると、キリストは追放された男にすぐに会いに行ったことがわかります。
そしてその後、男はキリストのことを神様のもとから来たメシアであると信じました。
それに対して、キリストはファリサイ派の人々に対しては「あなたたちの罪は残る」と言われました。
この出来事を踏まえて、人間の罪について考えることができてみましょう。
ファリサイ派の人々にとっての「罪」とは、律法に違反することでした。
しかし、キリストは当時、もちろん、律法は犯し放題だと考えていたわけではありませんが、律法に違反していた人々に対しては優しく接しました。
キリストが律法を犯すこと以上に問題視していたのは、律法によって、人間が軽く扱われていたことでした。
キリストは、人間の尊厳が踏み躙られているところに、ユダヤ社会の問題を見ていたのです。
何かを基準にして、人間を値踏みして振り分けること、これは現代の社会にも広く蔓延している人間の罪だと言えます。
見た目、能力、育ち、学歴など、もし、こういうものを基準にして人間を軽んじることがあれば、それはファリサイ派の人々がやっていたことと同じことです。
だからこそ、キリストは良い羊飼いとしてこの世に来てくださったのです。
当時の習慣として、羊飼いは自分が任された羊一匹一匹に名前をつけていたそうです。
もちろん、羊は自分に付けられた名前を認識してはいなかったと思いますが、少なくとも主人の声を聞けば、それが自分を守ってくれる主人であるということは判別することができたのです。
人間の目から見えれば、羊の群れの中にいる羊一匹一匹はすべて同じ羊のように見えます。
しかし、キリストはご自分の羊である私たち一人一人のことを、一人として忘れるようなことはありません。
100人の人間が集まっていたとして、その中の1人が欠けてしまうことに痛みを感じられるお方です。
キリストにとって、この社会に属する人間は単なる群れではなく、一人一人が大切な存在だからです。