牧師ブログ

「イエスが洗礼を受けるとは何事か」

13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイによる福音書3:13-17)

キリストの洗礼志願

イエス・キリストの宣教は「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉から始まりましたが、それ以前に、これと同じ言葉を叫んでいたのが、洗礼者ヨハネという人物です。

洗礼者ヨハネは、もうすぐこの世の悪を裁く正義のメシアが来ることを信じ、人々に洗礼を授けていました。
ユダヤ中から大勢の人々がヨハネのもとに来て、洗礼を受けていましたが、ある時そこに、キリストが現れました。
それは、キリストも他の人々と同じように、ヨハネから洗礼を受けるためでした。
しかし、ヨハネは洗礼を授けることを思いとどまらせようとしました。

そもそも、ヨハネが授けていた洗礼という行為は何でしょうか?
もともと洗礼というのは、ユダヤ教の一部のグループで、清めの儀式として行われていたり、他宗教から改宗するために行われていたものでした。
ヨハネはそこに別の意味を込めて、洗礼を授けていました。

ヨハネが授けていた洗礼は、一言で言うと「悔い改め」の洗礼です。

そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。(マタイによる福音書3:5-6)

ヨハネからバプテスマを受けるためには、一つだけ条件がありました。
それは、自分の罪を告白すること、つまり、悔い改めでした。
ヨハネは自分の罪を告白した者に対して、洗礼を授けていました。

ヨハネがキリストに洗礼を授けることをためらった理由はここにあります。
ヨハネは、キリストには悔い改める必要がないことを知っていました。
メシアとして来られたキリストには、告白する罪がないので、洗礼を受ける必要はどこにもありませんでした。

それにもかかわらず、キリストが洗礼を受けたのはなぜでしょうか?
15節を見ると「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言っているように、洗礼を受けることが「正しいこと」だからでした。
ここで正しいことというのは、神様の目から見て、正しいことだと言えます。
つまり、キリストが洗礼を受けることは、神様が願っておられることだったのです。

罪人の一人として

そうだとしたら、なぜ神様はキリストが洗礼を受けることを願ったのでしょうか?
罪がないメシアであるキリストが洗礼を受ける意味はどこにあったのでしょうか?

キリストが洗礼を受けるということは、洗礼を受けた多くの人々と同じように、罪人の一人となることを意味します。
キリストは罪人の一人としてヨルダン川の水の中に入り、水の中から上がった後も、罪人の一人として生きました。
多くの苦しみを受け、最後は十字架にかけられ殺されたのは、人々がキリストを罪人だとみなしたからです。

洗礼という行為も、十字架にかかって死なれたということも、キリストが罪人の一人となったことを示しています。
罪人の一人として洗礼を受け、罪人の一人として十字架で殺されたキリスト。
そう考えてみると、キリストの生涯は、罪のないメシアとして生きながらも、同時に、罪人としての歩みだったとも言えます。

キリストが人間として生まれたこと、洗礼を受けたこと、十字架で殺されたこと、これら全てから言えることは、キリストは私たちと同じ立場に立ってくださる方だということです。

当時、ユダヤでは律法を守れない人は罪人とされました。
罪人は汚れた存在であり、神の救いを受ける資格はなく、見下される存在でした。
特に律法を厳格に守っていた宗教指導者たちは、清さとは正反対の存在である罪人に近づきたがりませんでした。

しかし、キリストは罪人を裁くためではなく、赦すために、受け入れるために近づきました。
罪人たちと一緒に食事をし、多くの時間を共に過ごしました。

もちろん、キリストは罪を犯すことを肯定していたわけではないでしょう。
しかし、それでもキリストは律法を守ることのできない人々の弱さや気持ちを理解してくださいました。
罪人の一人として洗礼を受け、十字架で殺されたキリストは、私たちと同じところまで降りて来て、同じ目線で生きてくださるお方です。

愛する子供、喜びの存在

キリストが洗礼を受け、水から上がると、突然、キリストに向かって天が開きました。
その時、キリストの上に聖霊が降され、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17節)という声を天から聞きました。

キリストの上に聖霊が降されたということは、父なる神様がキリストがこの地上で歩む間、いつも一緒にいてくださるということです。
また、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、その通りに、父なる神様がキリストを愛する存在として受け入れておられることを意味します。

17節の「わたしの心に適う者」という言葉は、他の日本語訳の聖書では「わたしはこれを喜ぶ」と訳されているものがあります。
父なる神様にとって、キリストは愛する子供であり、喜びそのものでした。

ここで考えたいことは、キリストがこの言葉を生涯で最も苦しかったであろう十字架の上で聞いたのではなく、まだ何も成し遂げていない始まりの時に聞いたということです。
キリストが洗礼を受けた時点というのは、宣教がスタートする時です。
スタート地点で、父なる神様はキリストに向かって「わたしの愛する子、これを喜ぶ」と言われました。

つまり、父なる神様にとっては、キリストがまだ何も成し遂げていない段階で、すでに愛する子供あり、喜びだったということです。

このことから、神様は私たちに対して、私たちが何か立派なことを成し遂げた時に「よくやった。あなたはわたしの愛する子供、喜びだ」と言われるのではなく、私が今ここにいるということで、すでに愛する子供として喜び、受け入れてくださるということです。

神様は私たちが何か立派な成果をあげたことを評価し、そこに価値を見出しているのではなく、神様の子供として存在していることだけで、すでに大きな喜びを感じておられるのです。