宣べ伝えられること
今日の本文には、復活したキリストがその後、天に上げられる「昇天」という出来事が記されています。
天に上げられるということは、弟子たちのもとから離れることを意味するわけで、そうだとすれば、この出来事は弟子たちにとって悲しみの出来事のはずです。
「キリストはどこに消えてしまったのか?」「早くキリストのもとに自分も行きたい」と。
しかし、キリストが天に上げられるのを見た弟子たちは、大喜びしました。
そして、その喜びの中で神殿に向かい、そこで神様を礼拝しました。
どうしてでしょうか?
地上に残された者たちにとって、キリストの昇天はどういう意味があるのでしょうか?
天に上げられる直前、キリストは「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と言われました。
これはすなわち、当時の聖書ー今で言う旧約聖書においてキリストについて預言されている事柄はすべて実現するということです。
そこで預言されていることとして、キリストは続けて三つのことを語りました。
⑴メシアは苦しみを受けて殺されること
⑵メシアは三日目に死者の中から復活するとういうこと
⑶罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられるということ
この中で⑴と⑵については、すでにこの時実現済みで、これから必ず起こることとしてキリストが伝えようとしたことは、三つ目です。
あらゆる国の人々が罪の赦しを得させる悔い改めに至るためには、宣べ伝えられる必要性がありました。
この地に足をつけて
それでキリストは、48節で「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われたのです。
キリストが十字架につけられて殺され、復活されたこと、そしてこのことを通して人々が自らの罪を自覚して、主による赦しを得ること、これが聖書が語っている良い知らせー福音のひとつであり、キリストはこのことがあらゆる人々に宣べ伝えられることを願いました。
そのために、キリストが選ばれ、生涯を共にしたのが、弟子たちだったのです。
このことから、地上に残された者たちが考えるべきことがあります。
それは、残された人生、この地上でどのように歩むべきかということです。
天に上げられたキリストを見ながら、いずれキリストのもとに行くのだから、あとは天のことだけを考えて生きればいい、という考え方があります。
確かに、クリスチャンにとって、天というのは最終的なゴール地点であり、最大の希望です。
しかし、これは信仰的な姿勢とは言えません。
天に至るまで、私たちにはこの地上での歩みが与えられているからです。
証言者として
キリストは、弟子たちがこれからキリストを宣べ伝える証人として、地上で新たに歩み始めることを期待しました。
証言者として生きるという生き方です。
宣べ伝えるということは、単にキリストに関する知識を情報として伝達することではなく、証言することです。
聖書の福音書は当時の人々がキリストについて証言した証言集だと言えます。
キリストに関する証言を語る者がいて、それを聞いた人々がイエスをメシアとして受け入れて、またそのことが証言されていって…これがキリスト教の歴史です。
地上に残された者たちがキリストの証言者として歩むことができるように、キリストは「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と、この地上に聖霊を与える約束をしてくださいました。
来週は聖霊降臨日といって、キリストの昇天してから10日後に、この地に聖霊が注がれたことを記念する日曜日です。
この聖霊の助けと励ましによって、私たちは誰でも、証言者としての人生を歩むことができるのです。